Re: 韓国人たちの反日感情の起源
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/10/10 23:52 投稿番号: [2992 / 7270]
pyeongyang_kim さん、こんばんは。
>本来朝鮮人たちは日本人たちに特別な感情は全然持っていなかった
日本人も明治の初めの頃までは、朝鮮人に悪い感情は持っていなかったようです。
翻訳機を使って読むのは大変だとは思いますが、当時の明治政府と朝鮮政府とのやり取りや、
当時の出来事が詳しく書かれているサイトがありますのでご紹介します。
↓「明治開化期の日本と朝鮮(2)」
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi013.html
__________________________________
対話と圧力
明治3年(1870)から公館に出仕していた森山茂理事官は、長年の朝鮮人外交官僚との紆余曲折の交渉を経て、どうやら朝鮮「人」そのものへの不信とまでなったようである。〜中略〜
しかしそれは、誠意・真心・信義などを尊ぶ日本の精神文化に基づく価値観との齟齬から出てきたものであり、華夷秩序の礼律を基盤とする朝鮮文化からすれば、格下に対するそのような(侮蔑 愚弄の)態度は理の当然であった。
「話せば分かる」という考え方が通じるのは、文化的価値観を共有する場合、あるいはその接点が明確にある時である。
明治6年の政府内における征韓の議論において、西郷隆盛が自分を特使として朝鮮に派遣するよう主張したが、「決死の覚悟を持って話し合いをする」という西郷の心構えは、日本人には理解できても当時の朝鮮官僚なら「倭奴の蛮勇」ぐらいにしか見なかっただろう。
外交の何たるかをいささか知る岩倉具視が、西郷の意見に反対したのは、話し合いが決裂すれば、決死の覚悟の西郷は朝鮮で憤死し、国民から人気がある西郷がそのような死に方をして、日本が何もせぬわけにはいかないということになるからであった。当然、朝鮮との戦争しか道は無い。朝鮮はそうすれば、必ず清に援軍を要請する。清は積極的に属国の内政外交にまで干渉しないことを建前としているが、要請を受ければ宗主国として軍を出さざるを得ない。つまり20年早い日清戦争、いや日清朝戦争である。当時の日本にそれができる国力があったろうか。〜後略
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↑この中に次のようなことも書かれています。
>仏米の艦隊と朝鮮軍
「そもそも朝鮮が、軍艦の1隻や2隻でどうこうなるものではないことはすでに明らかであった。
なにしろ、1866年3月に2度にわたって襲来したフランス艦隊は7隻の軍艦と1500人の陸戦隊であったが朝鮮軍は2度とも撃退している。また、1871年5月のアメリカ艦隊は5隻の軍艦(2400トン級、旗艦Colorado、Alaska、Beniciaなど)と選りすぐりの陸戦隊精鋭500人をもって砲撃しながら江華水路内に突入したのに対し、朝鮮側は243人の戦死者をだしながらも奇襲・夜襲を敢行し、結局は引き揚げさせている。
朝鮮国の防衛力は半端ではないのである。もちろんそれに、宗主国である清国の軍事力も後ろに控えている。 日本は、平和的に解決するしかないのである。」
この「半端ではない防衛力」をどうして失っったのか、そちらではどのように説明されているのでしょう?
(この朝鮮国の当時の防衛力については私がこのカテの投稿を読んだ範囲では話題になっていた記憶がありません。)
↓「明治開化期の日本と朝鮮(3)」(途中に当時の日本の国民世論の記述があります)
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi014.html
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〜前略〜
すでに「征韓論」は終わったも同然の日本政府内部と違って、国民世論が朝鮮に対して最高に怒ったのはこの事件によってであった。まさに「征韓」の声が国中に満ち沸騰したのである。日本全国から「朝鮮討つべし」の建白が続々と政府に届けられた。 (絵画の画像)
上の絵は明治8年(1875)に出版されたものだが、かつての豊臣秀吉による「朝鮮出兵」での加藤清正の活躍を再現し、「皇威を海外に輝す」という当代的タイトルを付けている。もちろん明治8年当時の人々の朝鮮に対する憤懣を代弁し、また煽り立てているとも言える錦絵である。
このような絵画が出版されることを以ってしても、当時の日本国内の雰囲気を知ることが出来るのではなかろうか。〜後略
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以上、文章の一部分の\xA5
>本来朝鮮人たちは日本人たちに特別な感情は全然持っていなかった
日本人も明治の初めの頃までは、朝鮮人に悪い感情は持っていなかったようです。
翻訳機を使って読むのは大変だとは思いますが、当時の明治政府と朝鮮政府とのやり取りや、
当時の出来事が詳しく書かれているサイトがありますのでご紹介します。
↓「明治開化期の日本と朝鮮(2)」
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi013.html
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対話と圧力
明治3年(1870)から公館に出仕していた森山茂理事官は、長年の朝鮮人外交官僚との紆余曲折の交渉を経て、どうやら朝鮮「人」そのものへの不信とまでなったようである。〜中略〜
しかしそれは、誠意・真心・信義などを尊ぶ日本の精神文化に基づく価値観との齟齬から出てきたものであり、華夷秩序の礼律を基盤とする朝鮮文化からすれば、格下に対するそのような(侮蔑 愚弄の)態度は理の当然であった。
「話せば分かる」という考え方が通じるのは、文化的価値観を共有する場合、あるいはその接点が明確にある時である。
明治6年の政府内における征韓の議論において、西郷隆盛が自分を特使として朝鮮に派遣するよう主張したが、「決死の覚悟を持って話し合いをする」という西郷の心構えは、日本人には理解できても当時の朝鮮官僚なら「倭奴の蛮勇」ぐらいにしか見なかっただろう。
外交の何たるかをいささか知る岩倉具視が、西郷の意見に反対したのは、話し合いが決裂すれば、決死の覚悟の西郷は朝鮮で憤死し、国民から人気がある西郷がそのような死に方をして、日本が何もせぬわけにはいかないということになるからであった。当然、朝鮮との戦争しか道は無い。朝鮮はそうすれば、必ず清に援軍を要請する。清は積極的に属国の内政外交にまで干渉しないことを建前としているが、要請を受ければ宗主国として軍を出さざるを得ない。つまり20年早い日清戦争、いや日清朝戦争である。当時の日本にそれができる国力があったろうか。〜後略
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↑この中に次のようなことも書かれています。
>仏米の艦隊と朝鮮軍
「そもそも朝鮮が、軍艦の1隻や2隻でどうこうなるものではないことはすでに明らかであった。
なにしろ、1866年3月に2度にわたって襲来したフランス艦隊は7隻の軍艦と1500人の陸戦隊であったが朝鮮軍は2度とも撃退している。また、1871年5月のアメリカ艦隊は5隻の軍艦(2400トン級、旗艦Colorado、Alaska、Beniciaなど)と選りすぐりの陸戦隊精鋭500人をもって砲撃しながら江華水路内に突入したのに対し、朝鮮側は243人の戦死者をだしながらも奇襲・夜襲を敢行し、結局は引き揚げさせている。
朝鮮国の防衛力は半端ではないのである。もちろんそれに、宗主国である清国の軍事力も後ろに控えている。 日本は、平和的に解決するしかないのである。」
この「半端ではない防衛力」をどうして失っったのか、そちらではどのように説明されているのでしょう?
(この朝鮮国の当時の防衛力については私がこのカテの投稿を読んだ範囲では話題になっていた記憶がありません。)
↓「明治開化期の日本と朝鮮(3)」(途中に当時の日本の国民世論の記述があります)
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi014.html
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〜前略〜
すでに「征韓論」は終わったも同然の日本政府内部と違って、国民世論が朝鮮に対して最高に怒ったのはこの事件によってであった。まさに「征韓」の声が国中に満ち沸騰したのである。日本全国から「朝鮮討つべし」の建白が続々と政府に届けられた。 (絵画の画像)
上の絵は明治8年(1875)に出版されたものだが、かつての豊臣秀吉による「朝鮮出兵」での加藤清正の活躍を再現し、「皇威を海外に輝す」という当代的タイトルを付けている。もちろん明治8年当時の人々の朝鮮に対する憤懣を代弁し、また煽り立てているとも言える錦絵である。
このような絵画が出版されることを以ってしても、当時の日本国内の雰囲気を知ることが出来るのではなかろうか。〜後略
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以上、文章の一部分の\xA5
これは メッセージ 2982 (pyeongyang_kim さん)への返信です.
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