「韓国は一個の哲学である」(3)
投稿者: Kmechan 投稿日時: 2002/02/12 05:22 投稿番号: [765 / 3669]
日本は明治以降に儒教国家化の完成を目指す
普通、江戸時代の日本は儒教国家であり、明治維新でそれを打倒して西欧近代的な国家体制を作った、と考えられている。
しかしこのような歴史把握は、根本的に誤りだ。
江戸時代の日本は儒教国家ではなかった。
儒者が政治を担わぬ儒教国家はありえない。
ただし明治維新を成し遂げたのは、儒教的変革主義者たちである。
日本は完全な儒教国家でなく、しかも多様な急進的儒教主義者が存在したことが、明治維新を可能にした。
明治維新以降、日本は遅ればせながらようやく儒教的中央集権国家をつくりはじめた。
明治の近代日本は、封建体制からの脱皮であったが、儒教体制からの脱皮をはかったものではない。
むしろ日本全体の儒教国家化を、西欧の理念を摂取して推進したのだ。
明治期に中央集権・国家試験による官僚選抜など推進したのも、国家を全体的に儒教体制化する動きだった。
これと別に自由民権運動は、「言論の自由」「国民の政治的主体性」(それらは士大夫の権利である)など主張して、日本の儒教社会化を推進した。
明治初期のイデオローグから共産主義者や超国家主義者を経て、1960年代の学生運動家に連なる系譜。
彼らは明治以降に儒教的な<知>と権力のダイナミックな関係を始めて知った人々とその末たちであり、道徳志向的な人々であった。
それは、日本で道徳が青くさかった、稀なる一世紀の物語である。
韓国はひとつの哲学である。
朝鮮あるいは韓国は、一個の哲学である。
哲学そのものが領土・人・主権として固まったものが、朝鮮あるいは韓国なのである。
ここで哲学とは<理>をいう。
朱子学による国家統治以降、この半島を支配してきたのは、ひたすら、<理>であった。
つねに一個性を主張する<理>なのであった。
<理>とは何か。
普遍的原理である。天すなわち自然の法則と、人間社会の道徳とが一ミリの誤差もなく一致した、いや一致すべきであるとした、絶対的規範。
すなわち今の韓国人の道徳志向性は、この伝統的な<理>志向性の延長なのである。
朝鮮王朝の哲学者たちは実に精緻な「理気論」を、数百年も繰り返した。
これには理由がある。
人間の心から社会・宇宙まで、<理>と<気>の関係によって、より整然たる体系で説明しえた勢力のみが、政権を掌握しえたからである。
そしてこの哲学論争に敗北したグループは、権力から排除される。
<理>は普遍の運動である。
この普遍を激しい論争によって奪い取った者が、権力と富とを独占する。
つまり<理>は真理であり規範であり、同時にカネやめしの素なのである。
すべての人は、その人の体現する<理>の多寡によって、一元的に序列がつけられる。
体現する<理>がおおければ多いほど、めしがたらふく食えるのであった。
普通、江戸時代の日本は儒教国家であり、明治維新でそれを打倒して西欧近代的な国家体制を作った、と考えられている。
しかしこのような歴史把握は、根本的に誤りだ。
江戸時代の日本は儒教国家ではなかった。
儒者が政治を担わぬ儒教国家はありえない。
ただし明治維新を成し遂げたのは、儒教的変革主義者たちである。
日本は完全な儒教国家でなく、しかも多様な急進的儒教主義者が存在したことが、明治維新を可能にした。
明治維新以降、日本は遅ればせながらようやく儒教的中央集権国家をつくりはじめた。
明治の近代日本は、封建体制からの脱皮であったが、儒教体制からの脱皮をはかったものではない。
むしろ日本全体の儒教国家化を、西欧の理念を摂取して推進したのだ。
明治期に中央集権・国家試験による官僚選抜など推進したのも、国家を全体的に儒教体制化する動きだった。
これと別に自由民権運動は、「言論の自由」「国民の政治的主体性」(それらは士大夫の権利である)など主張して、日本の儒教社会化を推進した。
明治初期のイデオローグから共産主義者や超国家主義者を経て、1960年代の学生運動家に連なる系譜。
彼らは明治以降に儒教的な<知>と権力のダイナミックな関係を始めて知った人々とその末たちであり、道徳志向的な人々であった。
それは、日本で道徳が青くさかった、稀なる一世紀の物語である。
韓国はひとつの哲学である。
朝鮮あるいは韓国は、一個の哲学である。
哲学そのものが領土・人・主権として固まったものが、朝鮮あるいは韓国なのである。
ここで哲学とは<理>をいう。
朱子学による国家統治以降、この半島を支配してきたのは、ひたすら、<理>であった。
つねに一個性を主張する<理>なのであった。
<理>とは何か。
普遍的原理である。天すなわち自然の法則と、人間社会の道徳とが一ミリの誤差もなく一致した、いや一致すべきであるとした、絶対的規範。
すなわち今の韓国人の道徳志向性は、この伝統的な<理>志向性の延長なのである。
朝鮮王朝の哲学者たちは実に精緻な「理気論」を、数百年も繰り返した。
これには理由がある。
人間の心から社会・宇宙まで、<理>と<気>の関係によって、より整然たる体系で説明しえた勢力のみが、政権を掌握しえたからである。
そしてこの哲学論争に敗北したグループは、権力から排除される。
<理>は普遍の運動である。
この普遍を激しい論争によって奪い取った者が、権力と富とを独占する。
つまり<理>は真理であり規範であり、同時にカネやめしの素なのである。
すべての人は、その人の体現する<理>の多寡によって、一元的に序列がつけられる。
体現する<理>がおおければ多いほど、めしがたらふく食えるのであった。
これは メッセージ 764 (Kmechan さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1_1/765.html