朝鮮文化の将来 一
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2007/03/16 10:39 投稿番号: [3171 / 3669]
(一)
朝鮮問題は、過般の大震災に出会して、一部の人々は悲観論をしているが、これは容易に与することは出来ない。といって、朝鮮の現状が、吾れ等の希望にそうものとは、思わない。もともと、半島は、南洋や、アフリカの植民地と同一の性質のもとに置かれる筈のものではない、千幾百年かの文化と歴史とを有し、その文化のあるものは、曾ては、吾人の文化に影響したという事実がある。日本人は、とかくに功をいそぐという癖があってならない。今少しくせかず、いそがず、自然の命ずるままに問題の推移を見たらばと思う。琉球問題ですら、数十年の日子を費して、はじめて解決を告げたではないか。
朝鮮問題について、忘れてはならぬことは、併合以前に於いて、日本の社会の、半島に及ぼした実際的経過である。満洲に生活した人々は、朝鮮を訪問して、容易に気づかるることと思うが、朝鮮の日本人の社会はせまくるしくて堪らない。その人々は、とかくにこせこせしている。土地柄であるとのみは申されないと思う満洲には南満鉄道という王国があり、その官庁と称するものは、遥か旅順の片田舎に引きこんでいるからでもあろうが、のんびりした気分は、どこかに溢れている。満洲の社会の、安定的でないということも、自由な空気を助けているのであろうが、しかし、それは全体的では無い。満洲に於ける日本人社会の発展を考えて見ると、日本内地の社会の延長ではあるけれども、日露戦争後、東京の政治経済力が、ただちに大連及びその地方にはたらきかけたのが、今日出来上っている社会の底面である。戦争当時もしくは、その以前より居住した日本人で、新社会に交渉を有するものといったら、幾何もなく、ありとしたら、浪人ぐらいのところであった。
戦争当時、花大人たちの客分であった人々が、時おり酒を被って気をはく、ほどの無邪気さを演ずるに過ぎないから、単調な植民地には、そうした人々の気分は、まんざらではなかったともいえる。朝鮮は、これに反している。併合の批判は、別に述べることとするが、それまでの径路を見るには、重に内地の延長そのものに外ならなかった。大体より見て、長崎、山口等、西南諸県の延長と見れば、大差がない。ただ満洲における日露戦役に相当するものは、半島では日清役であるから、その日本人の地位に影響したことは、著大であるけれども、内地の経済も政治も未だ積極的なるを得ない時代のことであったから、東京という文化の力が、ただちに半島に移植されずにすんだ、移植されたのは、前に述べた西南沿海地方の社会の、自然のままの延長に外ならなかったのである。この点は満鮮両地の日本人社会の底面に差異を生じた原因の重なるものと考えるが、さらに両地の主人側の素質からいえば、軽視されざる事実がある。
日清戦争を終えて数年後のことである。故小村濤太郎侯に従って京城より帰京した吾等の一友人は『京城は、アイスの手中に落ちた』といったことがあるが、その報道は、吾等をして、今にも尚ある強い鋭角的な響音を耳底に感知させずにはやまぬ。アイス跋扈が、内地社会の放慢なる延長に原因することは争われないけれども、しかし、翻って這般不快事の由来を顧みるに、鮮人側の責に負うべきものが多半であるのである。曲解であると思わるるかも知れないが読者にして、満洲にそうした不快事の頻発せないということに気づけば、この事件の真相は容易に諒解される筈であると思う。
低級な経済思想といえば、半島の鮮人ほどはなはだしいものはまれである。それには、種々の原因がある、幾百年かの悪政も、これに結果していよう。生活の程度を高めるということは、寧ろ罪悪であるとした哲学の所有者は、半島の民族である。支那にても、こうした宣伝は、道教や儒者などの口から、かなり発せられているが、それは貧富の懸隔が、あまりにはなはだしく、人々の慾望が、際限なく発展しやすい社会状態であったからである。支那の名君といった人々で、産業の均等主義を宣言しないものはない。唐末五代の周の世宗は、元微之の均田図を見て感服した、朱子は、そのことをほめて、世宗は治世に意があったといっている。長髪賊の首領洪秀全でも、初めは、均田主義で起った西漢末の王莽も、均田主義を標榜したが、その失敗は、おなじく主義に禍せられたので、あの場合は、王莽でなくとも、貧富問題には手を焼いたにきまっている。支那歴代のこうした政治的断面を述べることは目的ではないが、要するに、支那の均田主義は、支那それ自らの対症でなければならない。朝鮮の学者は、それを刻意模倣したわけである。多少の必要はあったが、行りすぎる程に模倣した。清貧哲学の発生したということは実は無理はない。
朝鮮問題は、過般の大震災に出会して、一部の人々は悲観論をしているが、これは容易に与することは出来ない。といって、朝鮮の現状が、吾れ等の希望にそうものとは、思わない。もともと、半島は、南洋や、アフリカの植民地と同一の性質のもとに置かれる筈のものではない、千幾百年かの文化と歴史とを有し、その文化のあるものは、曾ては、吾人の文化に影響したという事実がある。日本人は、とかくに功をいそぐという癖があってならない。今少しくせかず、いそがず、自然の命ずるままに問題の推移を見たらばと思う。琉球問題ですら、数十年の日子を費して、はじめて解決を告げたではないか。
朝鮮問題について、忘れてはならぬことは、併合以前に於いて、日本の社会の、半島に及ぼした実際的経過である。満洲に生活した人々は、朝鮮を訪問して、容易に気づかるることと思うが、朝鮮の日本人の社会はせまくるしくて堪らない。その人々は、とかくにこせこせしている。土地柄であるとのみは申されないと思う満洲には南満鉄道という王国があり、その官庁と称するものは、遥か旅順の片田舎に引きこんでいるからでもあろうが、のんびりした気分は、どこかに溢れている。満洲の社会の、安定的でないということも、自由な空気を助けているのであろうが、しかし、それは全体的では無い。満洲に於ける日本人社会の発展を考えて見ると、日本内地の社会の延長ではあるけれども、日露戦争後、東京の政治経済力が、ただちに大連及びその地方にはたらきかけたのが、今日出来上っている社会の底面である。戦争当時もしくは、その以前より居住した日本人で、新社会に交渉を有するものといったら、幾何もなく、ありとしたら、浪人ぐらいのところであった。
戦争当時、花大人たちの客分であった人々が、時おり酒を被って気をはく、ほどの無邪気さを演ずるに過ぎないから、単調な植民地には、そうした人々の気分は、まんざらではなかったともいえる。朝鮮は、これに反している。併合の批判は、別に述べることとするが、それまでの径路を見るには、重に内地の延長そのものに外ならなかった。大体より見て、長崎、山口等、西南諸県の延長と見れば、大差がない。ただ満洲における日露戦役に相当するものは、半島では日清役であるから、その日本人の地位に影響したことは、著大であるけれども、内地の経済も政治も未だ積極的なるを得ない時代のことであったから、東京という文化の力が、ただちに半島に移植されずにすんだ、移植されたのは、前に述べた西南沿海地方の社会の、自然のままの延長に外ならなかったのである。この点は満鮮両地の日本人社会の底面に差異を生じた原因の重なるものと考えるが、さらに両地の主人側の素質からいえば、軽視されざる事実がある。
日清戦争を終えて数年後のことである。故小村濤太郎侯に従って京城より帰京した吾等の一友人は『京城は、アイスの手中に落ちた』といったことがあるが、その報道は、吾等をして、今にも尚ある強い鋭角的な響音を耳底に感知させずにはやまぬ。アイス跋扈が、内地社会の放慢なる延長に原因することは争われないけれども、しかし、翻って這般不快事の由来を顧みるに、鮮人側の責に負うべきものが多半であるのである。曲解であると思わるるかも知れないが読者にして、満洲にそうした不快事の頻発せないということに気づけば、この事件の真相は容易に諒解される筈であると思う。
低級な経済思想といえば、半島の鮮人ほどはなはだしいものはまれである。それには、種々の原因がある、幾百年かの悪政も、これに結果していよう。生活の程度を高めるということは、寧ろ罪悪であるとした哲学の所有者は、半島の民族である。支那にても、こうした宣伝は、道教や儒者などの口から、かなり発せられているが、それは貧富の懸隔が、あまりにはなはだしく、人々の慾望が、際限なく発展しやすい社会状態であったからである。支那の名君といった人々で、産業の均等主義を宣言しないものはない。唐末五代の周の世宗は、元微之の均田図を見て感服した、朱子は、そのことをほめて、世宗は治世に意があったといっている。長髪賊の首領洪秀全でも、初めは、均田主義で起った西漢末の王莽も、均田主義を標榜したが、その失敗は、おなじく主義に禍せられたので、あの場合は、王莽でなくとも、貧富問題には手を焼いたにきまっている。支那歴代のこうした政治的断面を述べることは目的ではないが、要するに、支那の均田主義は、支那それ自らの対症でなければならない。朝鮮の学者は、それを刻意模倣したわけである。多少の必要はあったが、行りすぎる程に模倣した。清貧哲学の発生したということは実は無理はない。
これは メッセージ 3170 (monju_jz さん)への返信です.
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