近代日本の教育と朝鮮 ⑧
投稿者: blueskyjapan2006 投稿日時: 2006/06/18 02:15 投稿番号: [2989 / 3669]
C
1919年〜1931年(満州事変)
朝鮮人の抵抗運動が3・1独立運動という一つの全国的なうねりとして現れ
、この抵抗に出会った日本の朝鮮支配者が、いわゆる「文化政治」という
言葉を持ち出し、制度の若干の手直しをなした時期である。
教育の側面では、日本人・朝鮮人生徒の学校体系の形式的同一化がなされた。
その形式性と、ごく一部の者のみが同一化の対象となったことを明かにして
くれるのが、師範学校教育である。
そこでは法令上の建前と、現実の学校の実態が明かになっていた。
「文化政治」に伴う手直しは、その名目を変えなかったものが大部分であり、
また他方では経済の植民地的編成が進み、日本の「支配」がある範囲で
確立しつつある中で、なおそれなりの地位を保っている朝鮮人を用いよう
とするものでもあった。
前者の例として、1920年の普通学校の六年制への延長がある。
実際に延長された学校は全体の三分の一の程度であり(朝鮮総督府「諸学校一覧」
)、制度の上かっらも、四年卒業で高等普通学校へ進学することになっていた。
後者の例として、「朝鮮人訓導を以て公立普通学校長に任用するの途を哲」
いたとされる1919年10月の官制改革がある。(朝鮮総督府「施政25年史」)
これらの手直しを総合するものとして、1922年、「第二次朝鮮教育令」が公布
され、師範学校が設けられた。
「教育令」には、尋常小学校または終業年限六年の普通学校(普通学校は4年に短縮
することができるとされ、大多数は4年制であった。)卒業で入学し、男子六年
(普通科五年、演習科一年)、女子五年(普通科四年、演習科一年)の過程が
師範学校の本体として記され、その他、終業年限二年の高等小学校または普通学校
高等科卒業後、終業年限二年または三年の特科が定められていた。
総督府の当局者は、日本国内の教育制度と異なる師範学校を設けたことに対する
弁明からか、その尋常小学校卒業後六カ年(女子五カ年)としたことを、
「其の入学資格を原則として高等小学校卒業程度とする時は、国語を常用せざる
者に於いて当分資格者を得難いので」このようにし、「以て完全なる初等教育
者を養成せんことを期した」(朝鮮総督府「施政25年史」)といっている。
しかし、六年の師範学校として設置されたのは、京城師範学校一校だけであった。
そしてこの京城師範学校は先に述べたその成り立ちからも、その構成からも、
日本人の、それも日本人教育の教員養成が中心であった。
朝鮮人を収容する師範学校として、「教育令」の上では、高等小学校卒業者を
入学資格とする特科師範学校のみを作り、実質は普通学校六年卒業で受け入れていた。
(1922年、京城師範学校の二学年及び演習科には日本人が302人在籍したのに対し
、朝鮮人はわずか21人である。当時、師範学校は他に四年の特科と一年の講習科を
もつ忠清南道師範学校一校しかなかったが、同校には朝鮮人のみ107人が在籍していた。
(朝鮮総督府「施政25年史」))
資格に差をつけた教員の養成という、師範学校体制の性格が第一に現れている。
普通科というのは、英語が週に一時間少ないだけで、あとは高等普通学校、中学校とだいたい同じ
課程をもっている。
そもそも、演習科は日本国内の師範学校第二部と同じく、中等学校卒業者を受け入れる
ところに特色を持ち、普通科は、その予科のようなものであったといえる。
朝鮮人の学校である普通学校の教員養成課程である第二部と、
日本人小学校の教員養成課程である第一部との内容の上の違いは、週に一時間ずつの朝鮮語
の時間の違いでしかない。
それに対し、普通科及び演習科と特科の内容の違いの方が大きく、特科においては、
国語、図画、手工、農業又は商業に重点がおかれていることが分る。
教員養成課程は、その朝鮮人教育の教員を養成するの、日本人教育の教員を養成するのという観点
より、その教員になろうとする師範学校の生徒が朝鮮人であるか日本人であるかによって
差別する二本立ての体制となっていた。
朝鮮人の抵抗運動が3・1独立運動という一つの全国的なうねりとして現れ
、この抵抗に出会った日本の朝鮮支配者が、いわゆる「文化政治」という
言葉を持ち出し、制度の若干の手直しをなした時期である。
教育の側面では、日本人・朝鮮人生徒の学校体系の形式的同一化がなされた。
その形式性と、ごく一部の者のみが同一化の対象となったことを明かにして
くれるのが、師範学校教育である。
そこでは法令上の建前と、現実の学校の実態が明かになっていた。
「文化政治」に伴う手直しは、その名目を変えなかったものが大部分であり、
また他方では経済の植民地的編成が進み、日本の「支配」がある範囲で
確立しつつある中で、なおそれなりの地位を保っている朝鮮人を用いよう
とするものでもあった。
前者の例として、1920年の普通学校の六年制への延長がある。
実際に延長された学校は全体の三分の一の程度であり(朝鮮総督府「諸学校一覧」
)、制度の上かっらも、四年卒業で高等普通学校へ進学することになっていた。
後者の例として、「朝鮮人訓導を以て公立普通学校長に任用するの途を哲」
いたとされる1919年10月の官制改革がある。(朝鮮総督府「施政25年史」)
これらの手直しを総合するものとして、1922年、「第二次朝鮮教育令」が公布
され、師範学校が設けられた。
「教育令」には、尋常小学校または終業年限六年の普通学校(普通学校は4年に短縮
することができるとされ、大多数は4年制であった。)卒業で入学し、男子六年
(普通科五年、演習科一年)、女子五年(普通科四年、演習科一年)の過程が
師範学校の本体として記され、その他、終業年限二年の高等小学校または普通学校
高等科卒業後、終業年限二年または三年の特科が定められていた。
総督府の当局者は、日本国内の教育制度と異なる師範学校を設けたことに対する
弁明からか、その尋常小学校卒業後六カ年(女子五カ年)としたことを、
「其の入学資格を原則として高等小学校卒業程度とする時は、国語を常用せざる
者に於いて当分資格者を得難いので」このようにし、「以て完全なる初等教育
者を養成せんことを期した」(朝鮮総督府「施政25年史」)といっている。
しかし、六年の師範学校として設置されたのは、京城師範学校一校だけであった。
そしてこの京城師範学校は先に述べたその成り立ちからも、その構成からも、
日本人の、それも日本人教育の教員養成が中心であった。
朝鮮人を収容する師範学校として、「教育令」の上では、高等小学校卒業者を
入学資格とする特科師範学校のみを作り、実質は普通学校六年卒業で受け入れていた。
(1922年、京城師範学校の二学年及び演習科には日本人が302人在籍したのに対し
、朝鮮人はわずか21人である。当時、師範学校は他に四年の特科と一年の講習科を
もつ忠清南道師範学校一校しかなかったが、同校には朝鮮人のみ107人が在籍していた。
(朝鮮総督府「施政25年史」))
資格に差をつけた教員の養成という、師範学校体制の性格が第一に現れている。
普通科というのは、英語が週に一時間少ないだけで、あとは高等普通学校、中学校とだいたい同じ
課程をもっている。
そもそも、演習科は日本国内の師範学校第二部と同じく、中等学校卒業者を受け入れる
ところに特色を持ち、普通科は、その予科のようなものであったといえる。
朝鮮人の学校である普通学校の教員養成課程である第二部と、
日本人小学校の教員養成課程である第一部との内容の上の違いは、週に一時間ずつの朝鮮語
の時間の違いでしかない。
それに対し、普通科及び演習科と特科の内容の違いの方が大きく、特科においては、
国語、図画、手工、農業又は商業に重点がおかれていることが分る。
教員養成課程は、その朝鮮人教育の教員を養成するの、日本人教育の教員を養成するのという観点
より、その教員になろうとする師範学校の生徒が朝鮮人であるか日本人であるかによって
差別する二本立ての体制となっていた。
これは メッセージ 2945 (whiterose20051 さん)への返信です.
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