植民地朝鮮の日本人 釜山開港(2)
投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/10 12:09 投稿番号: [2837 / 3669]
1976年9月、日本政府は、長崎・五島・対馬・釜山の航路開設
には助成金年5000円の下付を通知し、渡航や貿易を奨励した。
こうして、商船が一ヶ月に一回、長崎と釜山の間を往復する
ようになった。
そして、10月になると、これまで朝鮮と特殊な関係にあった対馬
の人に限られていた朝鮮への渡航規則を撤廃し、日本人は誰でも
自由に朝鮮を渡り、貿易も出来るようにした。
1977年1月になると、「釜山港日本人居留地祖借条約」を締結し、
江戸時代に設置されていた倭館の敷地11万坪をそのまま日本の
専管居留地にした。
そして、管理官を派遣し管理丁を置いた
(それぞれ領事・領事館と改称されたのは1980年のことである。)
1977年2月には、居留地に近代的な官立済生病院を開設した。
日本の発展ぶりを誇示するものであった。
ところで、日本はなぜ、釜山に目をつけたのだろうか。
釜山は、日本に最も近かっただけなく、江戸時代以来、対馬との間で
貿易を行っていて、倭館も設置されていたからである。
1971年ころには200人程度の居留民もいたし、1972年には、後に
「朝日新聞」釜山通信員と活躍する半井泉太郎も、医者として
倭館に勤務していたから父のもとで給仕として働いていている。
対馬藩が朝鮮外交役を罷免された後だったので、そこに居住する
者は減少していたが、それでも50人〜60人はいた。
その中には、1973年10月に外務省が設置した草梁館語学所で学ぶ
旧対馬藩士族が10人もいたという。
ところで、釜山を開港した年(1976年)の釜山居留民の人口統計は
見つかっていない。
しかし、当時は釜山以外には日本人はいなかったから、善生英助が
調査した全朝鮮居留民の数を釜山のそれとして考えれば、54人で
あった。
そのうちの二人は女性と記録されている。
難波専太郎によると、海軍大軍医・矢野義徴の妻と女中が最初で、
大倉組の富田重五郎の「女中」(妻の誤まり)がそれにつぐという
富田が妻子をつれて釜山についたのは1976年11月のことであった。
11月には、外務省書記生・中野許太郎も妻を帯同してきたというから
、年末の女性はの数は、二人以上になっていたはずである。
1977年3月、朝鮮側は、家族連れの渡航は条約違反であると抗議したが
、日本側は突っぱねた。
1977年には345人と激増した。
そうした中で、早くも同年5月には、13人の児童を対象に、共立学校という
名の小学校程度の学校が設置された。
朝鮮における日本人学校の初めである。
1980年末には2066人に達した。
植民地朝鮮の日本人 高崎 宗司著 P4〜5
には助成金年5000円の下付を通知し、渡航や貿易を奨励した。
こうして、商船が一ヶ月に一回、長崎と釜山の間を往復する
ようになった。
そして、10月になると、これまで朝鮮と特殊な関係にあった対馬
の人に限られていた朝鮮への渡航規則を撤廃し、日本人は誰でも
自由に朝鮮を渡り、貿易も出来るようにした。
1977年1月になると、「釜山港日本人居留地祖借条約」を締結し、
江戸時代に設置されていた倭館の敷地11万坪をそのまま日本の
専管居留地にした。
そして、管理官を派遣し管理丁を置いた
(それぞれ領事・領事館と改称されたのは1980年のことである。)
1977年2月には、居留地に近代的な官立済生病院を開設した。
日本の発展ぶりを誇示するものであった。
ところで、日本はなぜ、釜山に目をつけたのだろうか。
釜山は、日本に最も近かっただけなく、江戸時代以来、対馬との間で
貿易を行っていて、倭館も設置されていたからである。
1971年ころには200人程度の居留民もいたし、1972年には、後に
「朝日新聞」釜山通信員と活躍する半井泉太郎も、医者として
倭館に勤務していたから父のもとで給仕として働いていている。
対馬藩が朝鮮外交役を罷免された後だったので、そこに居住する
者は減少していたが、それでも50人〜60人はいた。
その中には、1973年10月に外務省が設置した草梁館語学所で学ぶ
旧対馬藩士族が10人もいたという。
ところで、釜山を開港した年(1976年)の釜山居留民の人口統計は
見つかっていない。
しかし、当時は釜山以外には日本人はいなかったから、善生英助が
調査した全朝鮮居留民の数を釜山のそれとして考えれば、54人で
あった。
そのうちの二人は女性と記録されている。
難波専太郎によると、海軍大軍医・矢野義徴の妻と女中が最初で、
大倉組の富田重五郎の「女中」(妻の誤まり)がそれにつぐという
富田が妻子をつれて釜山についたのは1976年11月のことであった。
11月には、外務省書記生・中野許太郎も妻を帯同してきたというから
、年末の女性はの数は、二人以上になっていたはずである。
1977年3月、朝鮮側は、家族連れの渡航は条約違反であると抗議したが
、日本側は突っぱねた。
1977年には345人と激増した。
そうした中で、早くも同年5月には、13人の児童を対象に、共立学校という
名の小学校程度の学校が設置された。
朝鮮における日本人学校の初めである。
1980年末には2066人に達した。
植民地朝鮮の日本人 高崎 宗司著 P4〜5
これは メッセージ 2831 (whiterose20051 さん)への返信です.
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