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灰谷健次郎『兎の眼』

投稿者: bosintang 投稿日時: 2003/12/29 17:05 投稿番号: [1738 / 3669]
(理論社1974年,新潮文庫1984年)にこんな一節があります。

「親友がいましてな,いいやつでした。金龍生というて朝鮮の人間でした。わしの生涯のうち,あんなりっぱな男はほかにおりませんでしたわい」
  バクじいさんは過ぎ去った昔を思い出して,眼をしばたたいた。

「そのころ朝鮮は日本の植民地でした。金は不幸な母国の歴史を勉強しとったです。そういうグループがあって,そこで自分の国のことを勉強しとったです。爆弾投げたわけやなし,人を殺したわけやなし,自分の国のことを勉強しておって牢屋に入れられるちゅうバカな話がありますか先生」
  バクじいさんの顔は,苦しそうにゆがんだ。

「金龍生は牢屋に入れられましたわい。金と友だちやというだけで,わしも引っぱっていかれたです」
  小谷先生は胸が痛くなった。

「拷問というのを知っておりますか先生。人間ちゅうもんは,どんなことでもするもんですな。悪魔になれといわれたら,はいというて悪魔にもなれるもんですな。金が勉強しておったグループのメンバーを言えといわれて拷問されましたわい。天井からつるされて竹刀でぶたれました。あんなことはサムライの時代のことかと思っとったら,なんのなんの。わしも若かったから,口ごたえしてやったら,半殺しにされましたわい。人間が人にさからえるのはつかのまのこと,それからつめと肉のあいだに千枚通しを入れられたり,熱湯をかけられたりして,身も心もぐにゅぐにゅにさせられてしもうたです」
  からだがふるえてきて,それをとめるのに小谷先生は苦労をした。

「日本人だからそれくらいですんだんで,朝鮮人はもっとひどいときかされたもんやから,金のことを思って胸が痛んだです。がんばっておったら,金の母親がわしのところへきて,これいじょう拷問にたえていると命がなくなってしまうから,白状してくれと泣きつかれたです。龍生はどうしてもしゃべらないようだから,あんた,はいてくれ,そうして一年でも二年でも監獄にいってくれば,また自由の身になれるちゅうて泣くんですわい。そらそのとおりや,死んでしもたらなんにもならん,わしが受けた拷問を思うても,死ぬちゅうことは,じゅうぶん考えられる。それで,わしゃ白状しましたわい」
「それで金さんはたすかったのですか」
  小谷先生はせきこんでたずねた。

「なんの」――バクじいさんは,ごくっとのどをならした。
「赤い絵の具のついたジャガイモみたいな顔して,ものいわんと家へ帰ってきたです。もういっしょにしゃべることもかなわん,いっしょに酒を飲むこともかなわん,いっしょにチェロをひくこともかなわんからだになって,だまって帰ってきたです。金のおっかさんもえらいやつでしたわい。そのときは,もう一つぶも涙をこぼさんじゃった。あんたをうらまん,そのかわり龍生の分も生きてくれというて,わしを許してくれましたわい。わしゃ朝鮮の国と朝鮮の人を心から尊敬しておりますんじゃ。金と金のおっかさんを生んだ国ですもんなあ。」
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