松尾茂『私が朝鮮半島でしたこと』 2
投稿者: bosintang 投稿日時: 2002/11/09 18:18 投稿番号: [1301 / 3669]
終戦後は,それまでとうってかわって,権力を握った朝鮮人に連行され略奪を受けたりした。やがてソ連軍の進駐。
「ソ連軍が進駐してくる前に朝鮮側から,「日本人は将来のこともあるので若い女性20人をソ連軍に出すように」と申し入れがあったという。人身御供である。しかし,日本人会の小山田会長は申し入れをなんとかやりすごし,ソ連軍進駐と同時に司令官に直接面会を求め,人道的な処置を願い出た。さいわい司令官は「自分たちは,けっしてそのような要求をしたことはない」と返事してくれた。あとで聞くと,司令官は敬虔なクリスチャンだったという。
しかし,ソ連兵の来襲はやまず,夜ごと四,五人で,「マダムを出せ」とやってきた。朝鮮人が手引きをしていた。日本の娘は子どもに見えたのか,彼らは若い人妻を要求した。女性を外に逃がし,だれかが司令部に走っているあいだ,時間を引き延ばすために,なけなしの金で求めた焼酎をすすめて,憲兵が到着するのをひたすら待った。そういうことが何回もあった。
あるときは出入り口を朝鮮人に固めさせ,日本人全員を中庭に鶏でも追い出すようにして集め,目ぼしい女性を引き出そうとしたこともある。そのつど,男性陣は時間の引き延ばしに務め,ソ連軍憲兵の急行を求め,助けられた。だから,クリスチャンの司令官には感謝したものである」
このあたりは,北朝鮮にいた日本人の中では幸運な部類に入るでしょう。当時,38度線の北と南で,日本人の運命に大きな違いがあったようです。
やがて,自らが囚人のために作った刑務所用の建物に収容され,他の日本人400人とともに,一年以上の強制労働,収容生活を送る。
前途の展望もなく,シベリア送りの噂が高まるなか,家族を含む50数名で逃亡。義足をつけたまま,38度線めざして昼夜なく歩きつづけ,途中,頻繁に持物検査,金銭強要,略奪を受けながらも,一人の脱落者を出すこともなく,38度線の南に逃げ延びる。
「九月一日に安州の日本人収容所を脱出してから,ちょうど10日で約76里(304キロ)を逃げてきたことになる。途中,トラックで約25里(100キロ)を移動したが,よく歩いたものだ。子どもたちも偉かった。幼い芳子や弘子は両方から手をつながれて,半分眠りながら,引きずられるようにして歩いてきた。ひとりも欠けることなく連れて帰れたのは何よりだった。
道中を振り返ると,どこの保安署も持物検査は形だけで,薬品と刃物だけが取り上げられた。中年以上の朝鮮人は,みんな同情の目で私たちに接し,親切だった。迫害を加えたのは青年たちだった。朝鮮建国基金のためといって,金銭や持物を強要強奪したのは,保安隊,自警団と称する二十代の青年ばかりだった。しかし,実際に日本の政治を悪くいえるのは中年以上の人で,それを味わった人たちのはずなのだが」
このような目にあいながらも,朝鮮の人々に対する恨み節は聞こえてこない。かえって,窮乏が伝えられる北朝鮮の人々に対する気遣いが記される。
「戦後五十五年以上たってから,このような文を書く気になったのは,あの当時の安州の人たちや,工科学校に勉強にやった朝鮮の青年たちの顔がしきりと思い出されるからにほかならない。彼らは飢えることなく,飯をちゃんと食べているのだろうか。鴨緑江のほうでも食べるものがないという話を聞くと,やはり心が波立つ。いまの私にできることは,彼らの無事を祈ることだけだ」
回想録は,こと自分に関わる部分は美化されがちだから,少し差し引いて考える必要があろうけれど,これを読むかぎり,あの時代,日本人と半島の人々はけっこううまくやっていたように思えます。
「ソ連軍が進駐してくる前に朝鮮側から,「日本人は将来のこともあるので若い女性20人をソ連軍に出すように」と申し入れがあったという。人身御供である。しかし,日本人会の小山田会長は申し入れをなんとかやりすごし,ソ連軍進駐と同時に司令官に直接面会を求め,人道的な処置を願い出た。さいわい司令官は「自分たちは,けっしてそのような要求をしたことはない」と返事してくれた。あとで聞くと,司令官は敬虔なクリスチャンだったという。
しかし,ソ連兵の来襲はやまず,夜ごと四,五人で,「マダムを出せ」とやってきた。朝鮮人が手引きをしていた。日本の娘は子どもに見えたのか,彼らは若い人妻を要求した。女性を外に逃がし,だれかが司令部に走っているあいだ,時間を引き延ばすために,なけなしの金で求めた焼酎をすすめて,憲兵が到着するのをひたすら待った。そういうことが何回もあった。
あるときは出入り口を朝鮮人に固めさせ,日本人全員を中庭に鶏でも追い出すようにして集め,目ぼしい女性を引き出そうとしたこともある。そのつど,男性陣は時間の引き延ばしに務め,ソ連軍憲兵の急行を求め,助けられた。だから,クリスチャンの司令官には感謝したものである」
このあたりは,北朝鮮にいた日本人の中では幸運な部類に入るでしょう。当時,38度線の北と南で,日本人の運命に大きな違いがあったようです。
やがて,自らが囚人のために作った刑務所用の建物に収容され,他の日本人400人とともに,一年以上の強制労働,収容生活を送る。
前途の展望もなく,シベリア送りの噂が高まるなか,家族を含む50数名で逃亡。義足をつけたまま,38度線めざして昼夜なく歩きつづけ,途中,頻繁に持物検査,金銭強要,略奪を受けながらも,一人の脱落者を出すこともなく,38度線の南に逃げ延びる。
「九月一日に安州の日本人収容所を脱出してから,ちょうど10日で約76里(304キロ)を逃げてきたことになる。途中,トラックで約25里(100キロ)を移動したが,よく歩いたものだ。子どもたちも偉かった。幼い芳子や弘子は両方から手をつながれて,半分眠りながら,引きずられるようにして歩いてきた。ひとりも欠けることなく連れて帰れたのは何よりだった。
道中を振り返ると,どこの保安署も持物検査は形だけで,薬品と刃物だけが取り上げられた。中年以上の朝鮮人は,みんな同情の目で私たちに接し,親切だった。迫害を加えたのは青年たちだった。朝鮮建国基金のためといって,金銭や持物を強要強奪したのは,保安隊,自警団と称する二十代の青年ばかりだった。しかし,実際に日本の政治を悪くいえるのは中年以上の人で,それを味わった人たちのはずなのだが」
このような目にあいながらも,朝鮮の人々に対する恨み節は聞こえてこない。かえって,窮乏が伝えられる北朝鮮の人々に対する気遣いが記される。
「戦後五十五年以上たってから,このような文を書く気になったのは,あの当時の安州の人たちや,工科学校に勉強にやった朝鮮の青年たちの顔がしきりと思い出されるからにほかならない。彼らは飢えることなく,飯をちゃんと食べているのだろうか。鴨緑江のほうでも食べるものがないという話を聞くと,やはり心が波立つ。いまの私にできることは,彼らの無事を祈ることだけだ」
回想録は,こと自分に関わる部分は美化されがちだから,少し差し引いて考える必要があろうけれど,これを読むかぎり,あの時代,日本人と半島の人々はけっこううまくやっていたように思えます。
これは メッセージ 1300 (bosintang さん)への返信です.
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