松尾茂『私が朝鮮半島でしたこと』
投稿者: bosintang 投稿日時: 2002/11/09 18:17 投稿番号: [1300 / 3669]
以前,compactbox02さんとtuka_chanさんから紹介していただいた本を,遅ればせながらよみました。
松尾茂『私が朝鮮半島でしたこと−1928年〜1946年 架橋・農地改良・道路建設・鉄道工事』((草思社,2002)
18歳で朝鮮半島に渡り,その後18年間,朝鮮各地を渡り歩きながら各種土木工事を手がけた著者,91歳の回想録です。
鉄道工事ではトロッコに足を轢かれて以来,義足をつけて現場を指揮。でもそのおかげで兵役を免れた。このあたり,塞翁が馬の逸話を思い出します。
「摩擦はほとんどなく,私たちはほんとうに朝鮮の人のなかに溶けこんでくらしていた。いま考えると不思議なくらい何の不安もなく毎日が過ぎていった。
戦後になって歴史の本を読むと,抵抗運動とか暴動がいろいろあったとか書かれているが,さいわいその種の反抗にはあわなかった。身近で危険な目にあった話でも聞けば,用心したかもしれないが,そういうこともなかった。
もっとも終戦になったとき,作業員のなかに隠れていた共産党の幹部がバーッと出てきたことがある。牛車引きになりすまして,もぐり込んでいたらしい。ほんとうは危険があったのかもしれないのに,私たちが気づかなかっただけかもしれない。
しかし,昭和5,6年のころにくらべると,昭和12,3年には,反日感情の雰囲気もずいぶん違ってきていた。朝鮮の人たちも,あまり日本人に反感をもったり逆らうようなことをしたのでは結局,損になると気づいたのだろう。
裏ではどういっていたかしらないが,いつまでも日本人に反抗したり,いやがらせをしていても,自分が除け者にされるだけで,結局はついていかなければいい給料ももらえないと思ったのではなかろうか。自然と日本人にもなじむようになり,雰囲気はよくなっていった」
戦争が始まったあとの41年には,大河,鴨緑江に全長1000メートルの,当時としては最大規模の清城大橋の建設工事を請け負う。急流の難工事で,足場がくずれ,川に落下したものの九死に一生をえるというような経験もする。
最後の仕事は,安州の水利事業。広大な干潟の干拓で,完成すれば50万石(7万5000トン)の増収になるはずだったという。労務動員の朝鮮人や最後には刑務所の囚人などまで使って作業を進めたが,ついに未完のまま終戦を迎える。
「朝鮮半島には,それまでに日本はずいぶん金をつぎこんでいた。三十余年かかって半島に金と手を加えてきた成果が,ようやく実を結び始めていた。それは渡鮮以来18年を過ごした私が,実感として感じていたことだ。そして,これからいよいよ花開くというときに,終戦になってしまった。もしあのまま工事がつづいていたら,北朝鮮の食料事情はずいぶん違うものになっていたのではなかろうか。これからというときに残念なことをした,そういう思いが私のなかにある」
松尾茂『私が朝鮮半島でしたこと−1928年〜1946年 架橋・農地改良・道路建設・鉄道工事』((草思社,2002)
18歳で朝鮮半島に渡り,その後18年間,朝鮮各地を渡り歩きながら各種土木工事を手がけた著者,91歳の回想録です。
鉄道工事ではトロッコに足を轢かれて以来,義足をつけて現場を指揮。でもそのおかげで兵役を免れた。このあたり,塞翁が馬の逸話を思い出します。
「摩擦はほとんどなく,私たちはほんとうに朝鮮の人のなかに溶けこんでくらしていた。いま考えると不思議なくらい何の不安もなく毎日が過ぎていった。
戦後になって歴史の本を読むと,抵抗運動とか暴動がいろいろあったとか書かれているが,さいわいその種の反抗にはあわなかった。身近で危険な目にあった話でも聞けば,用心したかもしれないが,そういうこともなかった。
もっとも終戦になったとき,作業員のなかに隠れていた共産党の幹部がバーッと出てきたことがある。牛車引きになりすまして,もぐり込んでいたらしい。ほんとうは危険があったのかもしれないのに,私たちが気づかなかっただけかもしれない。
しかし,昭和5,6年のころにくらべると,昭和12,3年には,反日感情の雰囲気もずいぶん違ってきていた。朝鮮の人たちも,あまり日本人に反感をもったり逆らうようなことをしたのでは結局,損になると気づいたのだろう。
裏ではどういっていたかしらないが,いつまでも日本人に反抗したり,いやがらせをしていても,自分が除け者にされるだけで,結局はついていかなければいい給料ももらえないと思ったのではなかろうか。自然と日本人にもなじむようになり,雰囲気はよくなっていった」
戦争が始まったあとの41年には,大河,鴨緑江に全長1000メートルの,当時としては最大規模の清城大橋の建設工事を請け負う。急流の難工事で,足場がくずれ,川に落下したものの九死に一生をえるというような経験もする。
最後の仕事は,安州の水利事業。広大な干潟の干拓で,完成すれば50万石(7万5000トン)の増収になるはずだったという。労務動員の朝鮮人や最後には刑務所の囚人などまで使って作業を進めたが,ついに未完のまま終戦を迎える。
「朝鮮半島には,それまでに日本はずいぶん金をつぎこんでいた。三十余年かかって半島に金と手を加えてきた成果が,ようやく実を結び始めていた。それは渡鮮以来18年を過ごした私が,実感として感じていたことだ。そして,これからいよいよ花開くというときに,終戦になってしまった。もしあのまま工事がつづいていたら,北朝鮮の食料事情はずいぶん違うものになっていたのではなかろうか。これからというときに残念なことをした,そういう思いが私のなかにある」
これは メッセージ 944 (tuka_chan さん)への返信です.
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