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盗賊国家の成立(3)

投稿者: mochikokuhou02 投稿日時: 2005/09/10 05:05 投稿番号: [530 / 2503]
  「王宮は山寺のよう」「日本の扇を自分の物のようにいって献上してくる」
中国大宋からこのようなダメ出しを受けていた当時の王氏高麗は、貧窮のきわみにありました。日宋関係は嵯峨の篙然の入宋などによって深まり、直接交易の結果、朝鮮半島の仲介貿易は風前の灯でした。日宋に相手にされず、社会は混乱、思い余ってみずから契丹に援兵を求め、その恩人をだまし討ちにするなど、王氏高麗は狂犬のように転落の道を歩み、かえって契丹の征討軍にのこるくまなく血祭りに上げられ、その属国となりました。
  『百練抄』長保四年(1002)にはこんな記録もあります。

○   六月二十七日。諸卿、高麗国人が「かの国の苛酷に堪へず、伴類を引率し日本に住むべきの由」言上せる事を定申す。

圧政を敷いた無能王はやがて武班(朝鮮大名)に惨殺され、その武班を倒すために契丹の属国となる道を歩むのですが、当時から悪事の自家発電に余念がなく、諸外国にまで迷惑を垂れ流す、いかにも忌まわしい国だったことがうかがえます。紫式部がえがいた「こまびと」は、王氏高麗とは縁もゆかりもないいにしえの渤海遣日使のことにすぎません。元寇を招いたのも趙イ【外字=IME漢字表16画ヨ部イ「つね」】という慶尚南道出身者の巧言が発端です。


  平安期の脱韓者は816、817、822・・・など枚挙にいとまもありませんが、では『六国史』にさかのぼって九世紀以降の韓国人の非行を振り返って見ましょう。
  813年には新羅の賊が五島を襲った弘仁の韓寇がおこり、停止されていた弩(ボーガン)を復活して日本海沿岸に配置しています。いつわりの帰化はやはり賊を手引するものだったらしく、静岡県に送られた新羅人はコトがうまく運ばないのに腹を立て、820年に反乱しみじめに自滅しました。
  835年には新羅の不審船がしきりに偵察をくわえるため、壱岐に防人が復活しました。また843年には対馬が新羅軍の演習ぶりを伝え、九州全域に防人の復活が求められています。

  新羅使は狡猾に「交易」をもとめ、841年、842年と執拗にやってきますが、そのなかには新羅王家(キム)を滅ぼし贋王・朴をたてて操った大韓寇・張宝高(弓福)もいます。中国系との説もある弓一族は日本に近い莞島清海鎮を本拠に開城(:現・北朝鮮)や唐の登州(いまの山東省煙台)近郊などをアジトにし、日本の遣唐僧などにちかづいて工作に励んだ事でも知られています(円仁「入唐求法巡礼行記」現代語訳は東洋文庫、中公文庫など)。王氏高麗の先祖は高句麗とは何の関係もなく、この者の家来だったと推定されています。すなわち王建の主君だった開城の匪賊・弓裔は弓福一家にほかなりません。王建、という名にしても、中国の古代王のパクリです。

  それはさておき、845年には五十人あまりの日本人を拉致し、「漂流民を助けた恩」などを要求。865年には対馬銀坑の破損が伝えられますが、誰がやったのでしょうか。
  869年、新羅の賊が博多を襲い豊前の年貢・絹綿を略奪し逃げ回る先々で蛮行を重ねる貞観の大韓寇がおこります。翌年帰化人を武蔵に移し、873年新羅人の乗った不審船が薩摩で拿捕され、九州に戒厳令が発動。876年には五島に「島司」をおいて中韓盗賊船による略奪に備えています。
  893−4年には寛平の韓寇が肥後飽田郡(熊本)や対馬を襲い、今回は文屋善文が追伐に成功する一方、対馬にも防人が復活しています。有史以来執拗に嫌がらせを続けてきたこのような犯罪常習国家に、平定を望む声はあっても、好感を抱く理由はなかったのです。
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