〜歴史小説(8)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2007/12/05 22:38 投稿番号: [775 / 1474]
toapanlangさん、石落の御教示ありがとう(^^)/
[企画] 我々の時代の進歩的知識人 ④ 趙廷来(チョ・ジョンレ)論
大河小説『アリラン』を中心として
[イ・ヨンフン | ソウル大学教授] 季刊『時代精神』2007年夏号
(翻訳8)
4 金堤平野と東津水利組合(2)
元々そうだった地域が今日のような豊かな農業地帯に変わり始めたのは、植民地時期に行った水利事業のためだった。荒れ地を捨値で買受けた日本人農場主たちが、その水利事業の主役だった。1906年に大韓帝国水利組合条例が発布されると最初に組織された水利組合が、群山に本部を置く沃溝西部水利組合だ。まもなく臨益水利組合、臨陂中部水利組合、臨益南部水利組合、全益水利組合が1909年までに順次設立された。1910年まで全国で計7つの水利組合が生まれたが、その中にあって、群山金堤一帯だけで上のように5つの組合が生じたのだ。金堤平野一帯は韓国近代水利事業のメッカだ。そこでは、創始期の水利事業は、既存の水利施設である堤堰と「洑」を拡張したり、海水の侵入を阻むための防潮堤の築造を主要内容とした。
李完用が土地を買い入れたという西海岸の進鳳面に防潮堤が築造されるのは、1924年のことだ。それ以前に、東津川河口の低湿地一帯を李完用が地位を利用して3000〜5000石落(およそ3000〜5000町歩)も用意したとは、いくら小説だとしてもまことに荒唐な発想だ。ところで、既存の水利施設と防潮堤だけでは根本的な問題は解決されなかった。その広い平野を潤す水が極端に不足していたからだ。3.1運動が起きた1919年に大干ばつが生じた。その年、進鳳面と竹山面の4千余町歩は収獲が全然ないという惨状を呈した。
水利の抜本的な対策は、1925年に設立認可された東津(トンジン)水利組合が立てた。遠く全羅北道鎭安と淳昌に源を発し南へ流れて麗水湾へ出る纎津江の豊かな水を利用する発想が、その出発だった。1910年代に発達した航空地図法が、このような発想に科学的な根拠を提供した。工事は纎津江をダムでせき止めた後、金堤方面の山奥でトンネルをくぐって東津川へ水を逆流させる、いわゆる河川流域変更方式だった。そして東津川のあちこちに取水口を設置して、金堤、井邑、テイン、扶安など湖南平野の隅々まで農業用水を豊かに供給するという事業計画だった。
1928年12月、いよいよ高さ33mの雲岩堤が完成した。このダムは1940年に着手され、1961年に完工された纎津江多目的ダムによって水没するまで、南韓地域に存在した最大のダムであり貯水池だった。
工事計画が発表されると、一帯で騷乱が発生した。ダムに水没することになる地区の住民たちが一番激しく反対したのはもちろんだ。1919年、測量技術者たちが最初に水没予定地区に入って行き、住民たちから暴行を受けた。その他多様な衝突や請願を含めて、1920年代に展開された東津水利組合反対運動は、その規模や強さで全国的な注目の対象になった。水利組合が設立された以後にも、既存の水利体系の変動による複雑な利害関係でいろいろな悶着が絶えなかった。例えば、『東亜日報』1931年8月8日付けを見ると、益山金堤の軍民数百人が水利組合の万頃江堤防を破壊する騷動を起こすと武装警官が出動するまでになったが、その堤防で彼らの田の排水が不可能になったという理由であった。ともかく、これら幾多の紆余曲折を経ながら、1910年代まではあちこちに葦が繁茂する荒れてさびしい野原であったのが、朝鮮第一の穀倉地帯に変わったのだ。
(続く)
[企画] 我々の時代の進歩的知識人 ④ 趙廷来(チョ・ジョンレ)論
大河小説『アリラン』を中心として
[イ・ヨンフン | ソウル大学教授] 季刊『時代精神』2007年夏号
(翻訳8)
4 金堤平野と東津水利組合(2)
元々そうだった地域が今日のような豊かな農業地帯に変わり始めたのは、植民地時期に行った水利事業のためだった。荒れ地を捨値で買受けた日本人農場主たちが、その水利事業の主役だった。1906年に大韓帝国水利組合条例が発布されると最初に組織された水利組合が、群山に本部を置く沃溝西部水利組合だ。まもなく臨益水利組合、臨陂中部水利組合、臨益南部水利組合、全益水利組合が1909年までに順次設立された。1910年まで全国で計7つの水利組合が生まれたが、その中にあって、群山金堤一帯だけで上のように5つの組合が生じたのだ。金堤平野一帯は韓国近代水利事業のメッカだ。そこでは、創始期の水利事業は、既存の水利施設である堤堰と「洑」を拡張したり、海水の侵入を阻むための防潮堤の築造を主要内容とした。
李完用が土地を買い入れたという西海岸の進鳳面に防潮堤が築造されるのは、1924年のことだ。それ以前に、東津川河口の低湿地一帯を李完用が地位を利用して3000〜5000石落(およそ3000〜5000町歩)も用意したとは、いくら小説だとしてもまことに荒唐な発想だ。ところで、既存の水利施設と防潮堤だけでは根本的な問題は解決されなかった。その広い平野を潤す水が極端に不足していたからだ。3.1運動が起きた1919年に大干ばつが生じた。その年、進鳳面と竹山面の4千余町歩は収獲が全然ないという惨状を呈した。
水利の抜本的な対策は、1925年に設立認可された東津(トンジン)水利組合が立てた。遠く全羅北道鎭安と淳昌に源を発し南へ流れて麗水湾へ出る纎津江の豊かな水を利用する発想が、その出発だった。1910年代に発達した航空地図法が、このような発想に科学的な根拠を提供した。工事は纎津江をダムでせき止めた後、金堤方面の山奥でトンネルをくぐって東津川へ水を逆流させる、いわゆる河川流域変更方式だった。そして東津川のあちこちに取水口を設置して、金堤、井邑、テイン、扶安など湖南平野の隅々まで農業用水を豊かに供給するという事業計画だった。
1928年12月、いよいよ高さ33mの雲岩堤が完成した。このダムは1940年に着手され、1961年に完工された纎津江多目的ダムによって水没するまで、南韓地域に存在した最大のダムであり貯水池だった。
工事計画が発表されると、一帯で騷乱が発生した。ダムに水没することになる地区の住民たちが一番激しく反対したのはもちろんだ。1919年、測量技術者たちが最初に水没予定地区に入って行き、住民たちから暴行を受けた。その他多様な衝突や請願を含めて、1920年代に展開された東津水利組合反対運動は、その規模や強さで全国的な注目の対象になった。水利組合が設立された以後にも、既存の水利体系の変動による複雑な利害関係でいろいろな悶着が絶えなかった。例えば、『東亜日報』1931年8月8日付けを見ると、益山金堤の軍民数百人が水利組合の万頃江堤防を破壊する騷動を起こすと武装警官が出動するまでになったが、その堤防で彼らの田の排水が不可能になったという理由であった。ともかく、これら幾多の紆余曲折を経ながら、1910年代まではあちこちに葦が繁茂する荒れてさびしい野原であったのが、朝鮮第一の穀倉地帯に変わったのだ。
(続く)
これは メッセージ 774 (toapanlang さん)への返信です.
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