慰安婦の人権保護に関するヒアリング(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2007/03/11 09:33 投稿番号: [525 / 1474]
(翻訳)(続き)
李容洙(イ・ヨンス)の陳述 Statement of Lee Yong-soo
http://www.internationalrelations.house.gov/110/lee021507.htm
米国下院外務委員会、アジア、太平洋と地球環境に関する小委員会
慰安婦の人権保護に関するヒアリング
2007年2月15日(木)
議長Faleomavaegaと小委員会のメンバー
私たちは駅に行き、慶州行きの電車に乗りました。私が電車に乗ったのはそれが初めてでした。慶州でゲストハウスに宿泊しました。2日間ゲストハウスにいましたが、その間に、さらに2人の女の子が加わり7人になりました。私たちは電車に乗りました。大邱を通り抜けるときに、割れた窓から私の家が見えました。私は、突然母を恋しく思いました。私は泣き出し、家に帰りたいと言いました。私は服の包みを押しのけて泣き続け、降ろしてくれるよう男に頼みました。彼は拒否しました。私は疲れきって、電車が進む中でとうとう寝入ってしまいました。旅は何日もかかるようでした。
殴打と拷問
私たちは平安道アンジュで電車から降りて、普通の住居のような家に連れていかれました。年配の女性が、一人でその家を管理していました。食べ物は少なく、私たちには茹でたジャガイモととうもろこしが与えられました。とても空腹でした。そこでの滞在の間に、ときどき木からリンゴを取って来て食べました。
大邱から我々を連れて来た日本の男は、一人の女の子が間違った何かをすると私たち全員を罰しました。私たちは、水でいっぱいの大きなビンを持って小さな丸い棒(clubs)の上に立たなければなりませんでした。あるいは、彼は棒で私たちの手のひらや足の裏を叩きました。彼は私たちに、飲み水を持ってくるよう言いつけたりしました。そして、女の子が言われたことをするのにわずかでも時間がかかったりすると、彼は私たち全員を叩きました。弁解するとさらに打たれました。私たちは怯え、とにかく彼を刺激しないように努めました。
*これ以後は、戦争が終わって帰国するまでの間のかなり悲惨な体験が語られます。長いので要点のみ書きます。
大連から船に乗り上海経由で台湾に行った。途中の船内で自身も他の女の子も何度も乱暴された。海に飛び込んで死のうと思ったができなかった。
台湾に着いて慰安所に連れて行かれた。自分たちを連れてきた男はそこの経営者だった。部屋に入るのを拒むと、その男から電話線の電気ショックによる拷問を受けた。
トシコという名を付けられ、一日に4〜5人の相手をさせられた。お金は何も支払われることは無かった。兵士から殴られることはなかったが、経営者からしばしば殴られた。空襲が頻繁にあり、そのたびに避難した。健康診断を受けたか記憶が無い。性病に感染した。空襲から避難する外に外出はできなかった。韓国語を話すと叩かれた。
戦争が終わり、経営者がいつのまにか消え、国に帰れるようになった。なんとか我が家にたどり着いた。母は自分を見て、生きていたのかと驚き、気絶した。(My mother asked if I was a ghost or a real person and fainted.)その後、結婚を考えることはできなかった。
自分の青春を返してほしい。謝罪してほしい。(日本は)私たちの意に反して私たちを引いて(dragged)行った。
(翻訳紹介終わり)
陳述が終わると公聴会のメンバーは皆立ち上がって拍手をしていたので、この陳述は相当にアメリカ人の心を掴んだものと思われます。体験そのものは、この陳述のとおりとすればまことに同情すべきことですが、それが今、日本政府が謝罪すべきということに結びつくのかどうか。
この陳述では、親にも言わずに自ら家を出て男に会った理由が何なのかは不明ですね。
ただ、ニュース記事によれば、アメリカ議会の関係者の中には、すでに、「強制があったかどうかは関係ない。悲惨な体験があったことが問題だ。」という認識も形成されているようです。なかなか難しい局面ではあります。
李容洙(イ・ヨンス)の陳述 Statement of Lee Yong-soo
http://www.internationalrelations.house.gov/110/lee021507.htm
米国下院外務委員会、アジア、太平洋と地球環境に関する小委員会
慰安婦の人権保護に関するヒアリング
2007年2月15日(木)
議長Faleomavaegaと小委員会のメンバー
私たちは駅に行き、慶州行きの電車に乗りました。私が電車に乗ったのはそれが初めてでした。慶州でゲストハウスに宿泊しました。2日間ゲストハウスにいましたが、その間に、さらに2人の女の子が加わり7人になりました。私たちは電車に乗りました。大邱を通り抜けるときに、割れた窓から私の家が見えました。私は、突然母を恋しく思いました。私は泣き出し、家に帰りたいと言いました。私は服の包みを押しのけて泣き続け、降ろしてくれるよう男に頼みました。彼は拒否しました。私は疲れきって、電車が進む中でとうとう寝入ってしまいました。旅は何日もかかるようでした。
殴打と拷問
私たちは平安道アンジュで電車から降りて、普通の住居のような家に連れていかれました。年配の女性が、一人でその家を管理していました。食べ物は少なく、私たちには茹でたジャガイモととうもろこしが与えられました。とても空腹でした。そこでの滞在の間に、ときどき木からリンゴを取って来て食べました。
大邱から我々を連れて来た日本の男は、一人の女の子が間違った何かをすると私たち全員を罰しました。私たちは、水でいっぱいの大きなビンを持って小さな丸い棒(clubs)の上に立たなければなりませんでした。あるいは、彼は棒で私たちの手のひらや足の裏を叩きました。彼は私たちに、飲み水を持ってくるよう言いつけたりしました。そして、女の子が言われたことをするのにわずかでも時間がかかったりすると、彼は私たち全員を叩きました。弁解するとさらに打たれました。私たちは怯え、とにかく彼を刺激しないように努めました。
*これ以後は、戦争が終わって帰国するまでの間のかなり悲惨な体験が語られます。長いので要点のみ書きます。
大連から船に乗り上海経由で台湾に行った。途中の船内で自身も他の女の子も何度も乱暴された。海に飛び込んで死のうと思ったができなかった。
台湾に着いて慰安所に連れて行かれた。自分たちを連れてきた男はそこの経営者だった。部屋に入るのを拒むと、その男から電話線の電気ショックによる拷問を受けた。
トシコという名を付けられ、一日に4〜5人の相手をさせられた。お金は何も支払われることは無かった。兵士から殴られることはなかったが、経営者からしばしば殴られた。空襲が頻繁にあり、そのたびに避難した。健康診断を受けたか記憶が無い。性病に感染した。空襲から避難する外に外出はできなかった。韓国語を話すと叩かれた。
戦争が終わり、経営者がいつのまにか消え、国に帰れるようになった。なんとか我が家にたどり着いた。母は自分を見て、生きていたのかと驚き、気絶した。(My mother asked if I was a ghost or a real person and fainted.)その後、結婚を考えることはできなかった。
自分の青春を返してほしい。謝罪してほしい。(日本は)私たちの意に反して私たちを引いて(dragged)行った。
(翻訳紹介終わり)
陳述が終わると公聴会のメンバーは皆立ち上がって拍手をしていたので、この陳述は相当にアメリカ人の心を掴んだものと思われます。体験そのものは、この陳述のとおりとすればまことに同情すべきことですが、それが今、日本政府が謝罪すべきということに結びつくのかどうか。
この陳述では、親にも言わずに自ら家を出て男に会った理由が何なのかは不明ですね。
ただ、ニュース記事によれば、アメリカ議会の関係者の中には、すでに、「強制があったかどうかは関係ない。悲惨な体験があったことが問題だ。」という認識も形成されているようです。なかなか難しい局面ではあります。
これは メッセージ 524 (chaamiey さん)への返信です.
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