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慰安婦の人権保護に関するヒアリング

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2007/03/10 22:56 投稿番号: [524 / 1474]
(翻訳)   李容洙(イ・ヨンス)の陳述   Statement of   Lee Yong-soo
http://www.internationalrelations.house.gov/110/lee021507.htm

米国下院外務委員会、アジア、太平洋と地球環境に関する小委員会
慰安婦の人権保護に関するヒアリング

2007年2月15日(木)
議長Faleomavaegaと小委員会のメンバー


今日あなた方に会えたことに感謝します。また、オーストラリア慰安婦支援会のMs. Jan Ruff O’Herne及び全国韓国系アメリカ人支援・教育会のMs.キム・クンジャと共に体験を分かちあえることをうれしく思います。

  また、私は、下院決議案121号を提出してくれたマイケル・ホンダ下院議員にも感謝します。決議案121号は、日本の政府に対し、1930年代から第2次世界大戦の期間、植民地とアジア太平洋地域で、その帝国陸軍が若い女性たちを強制して、慰安婦(comfort women)という呼び名で世界に知られる性奴隷(sexual slavery)としたことについて、正式に認め、謝罪し、歴史的責任を明白、明確な方法で受け入れなければならない、という意思を表明するものです。

  今、ホンダ議員が、この決議案を提起するに到った状況を説明しました。これから、私たちの経歴について話します。私の砕かれた(shattered)子供時代の恥辱がその後の私の人生を悩まし続けたので、これは、私が数年前まで誰にも言わなかった物語です。私の人生のできごとにあなた方は衝撃を受けるでしょう。あなた方は、これらが虐待を描く映画の脚本かまたは小説であると思うでしょう。私は、これらが私に起こった本当のことであることをあなた方に約束します。

私の初期の人生

  私は、韓国の大邱市で1928年に生まれました。私の家族は貧しく、両親、祖母、5人の兄弟と私自身の9人家族で小さな家に住んでいました。父と母が家族を支えるために外で働くことができるように、私は正規の教育は1年しか受けず、弟たちの世話と家庭の雑用をすることに私の幼い時期の大部分を費やしました。

  私も13才で工場で働き始め、学校に戻ろうとしました。しかし、労働の重い負担は私が勉強に専念することを防げました。実を言うと、私はそれほど勉強好きな学生ではありませんでした。しかし私は音楽が好きで、歌声が可愛いと言われました。

  第二次世界大戦のとき、私が15歳のとき、私はチルソン小学校で奉仕隊のための訓練団に狩り出されました。男児と女児が訓練のためにそれぞれ一列に並び、体操をし、整列して行進しました。また、毎日、家に向かって隊列を組んで帰らなければなりませんでした。我々の生活は、非常に規格化されました。

  1944年の秋、私が16歳のときでした。友人のキム・プンサンと川辺で貝殻を拾っているとき、私たちを見下ろしている年配の男性と日本人男性に気付きました。年配の男性が私たちを指さすと、日本人の男は私たちの方へ近づいて来ました。年配の男は姿を消しました。日本人の男は私たちに、付いて来るように促しました。私はこわくなって逃げ、友人がどうなったか気にかける間もありませんでした。

  数日後、プンサンが朝早く私の窓を叩いて、静かに付いて来るように私にささやきました。私は、彼女に従って、忍び足で(tip-toed)家から出ました。私は、母に話すことなく去り(注:liftとあるがleftと考えて訳した)ました。私は黒いスカートをはいていて、前でボタンをかける長い綿のブラウスを着て、サンダル(slippers)を履いていました。私は友人に付いて言って、川岸で私たちに話をもちかけようとしたあの男に会いました。彼は30歳代の後半のように見え、戦闘帽をかぶり、国民服のようなもの(People’s Army uniform)を着ていました。私を含めて5人の女の子が彼と共にいました。

  (続く)
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