「公正」者の正体① Re: 日本人の幸福は
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2008/04/07 02:00 投稿番号: [97840 / 99628]
>ぱー君はエイホーやカーニハンやリッチーやワインバーガーやビル・ジョイやストールマンや嶋正利のような「超ビッグネーム」について知識をもってるのかい?俺の世界なら知らなきゃモグリだ
そうですか、「筆者が怖ろしく無知ゆえに柄谷という名前が未知の存在だった」という理由だったんですね。
それにしても、この幼児的感情的な反応は注目です。
おれはこういう「超ビッグネーム」を知ってるんだぜ! どうだ! お前は知らんだろうが! おれ様を舐めるな!
といった気持ちの素直な発露でしょう。(どうでもよいことですが)
>前書かなかっただけで、元寇史料館など他に多数の検索ヒットがあるし
だったらそういう公式のページから引くべきです。それを、匿名ウヨクの無責任投稿を引っ張り出し、しかも「参考資料」として学者の名前を明記することで匿名性の隠蔽を図る。
資料批判精神(メディアリテラシー)が少しでもあるなら、また他者へ説得力を与えようとするなら、そういう胡散臭いサイトは自分の中での参考以上には使用せず、返信としては公式ページから引用するだろう。その意味で、「前書かなかっただけ」という言葉はどうも信憑性に欠けます。
>これが「日本侵略に積極的に加担」でなければ何なんだ?
それがどうしたっていうんです? すでに書いたように、その「事実」は、柄谷学説に対する直接的な反証にはなりません。
ところで、別の方が、ウヨクの匿名情報にしか頼れないアイタタタタさんを不憫に思って援護されてます。その方の視点は一応柄谷学説へのアンチとしてそれなりに成立します。ところが、たとえばチロノカイヌシさんも尊敬する歴史学者の網野善彦はこう書いています。
モンゴルは1231年、高麗に侵攻し、1234年には金を滅ぼして華北を支配下に入れた。当時、武人が政権を掌握していた高麗は、たびたびの“モンゴル進入に対して頑強に抵抗し”、都を開京から江華島に移し、そこで高麗王朝最大の事業、大蔵経の再刊を実現するなど、“依然としてモンゴルに対する反抗の姿勢をとり続けていた” 〜(中略)〜
モンゴルの圧力とモンゴルに服属する国王元宗に対し、高麗の武人の反抗が強まり、フビライは高麗に武力介入した。これに応じて都を江華島から開京に戻そうとする元宗に対し、三別抄といわれる武人の組織が反乱を起こした 〜(中略)〜 1270年以来、“モンゴルに対して徹底的な抗戦姿勢をとっていた” 〜(中略)〜
しかし1272年、“粘り強く抵抗を続けていた”三別抄の最後の根拠地耽羅(済州島)がモンゴル軍 〜(中略)〜 によって攻略され、高麗の反モンゴル勢力を根絶させたフビライは、遠征を無意味とする趙良弼の諫言をしりぞけ、1274年(文永11)、高麗に強制してつくらせた900艘の舟に二万の元軍と一万数千の高麗軍を乗せ、日本に向けて発進させた
『日本社会の歴史(中)』網野善彦
(注・“”は私が記入)
その“”内を抜き出します。
モンゴル進入に対して頑強に抵抗し
依然としてモンゴルに対する反抗の姿勢をとり続けていた
モンゴルに対して徹底的な抗戦姿勢をとっていた
粘り強く抵抗を続けていた
以上ですね。つまり、網野も朝鮮はモンゴルに強く抵抗したと書いてるわけです。ですから、ウヨクのアイタタタタさん救済を目的に突然出現したこの“正体不明の匿名さん”がいう、
>モンゴル軍は高麗の抵抗など全く問題にしていません
>その後の30年間、朝鮮半島はただモンゴル軍に奴隷や略奪品を供給し続けていただけです
>モンゴル軍は30年間の高麗侵攻で、力を使い切るどころか、逆に肥え太ったのです
というのは、少なくとも“著名な歴史学者”網野や“世界レベルの知性”柄谷の見解と明確に対立します。
そうですか、「筆者が怖ろしく無知ゆえに柄谷という名前が未知の存在だった」という理由だったんですね。
それにしても、この幼児的感情的な反応は注目です。
おれはこういう「超ビッグネーム」を知ってるんだぜ! どうだ! お前は知らんだろうが! おれ様を舐めるな!
といった気持ちの素直な発露でしょう。(どうでもよいことですが)
>前書かなかっただけで、元寇史料館など他に多数の検索ヒットがあるし
だったらそういう公式のページから引くべきです。それを、匿名ウヨクの無責任投稿を引っ張り出し、しかも「参考資料」として学者の名前を明記することで匿名性の隠蔽を図る。
資料批判精神(メディアリテラシー)が少しでもあるなら、また他者へ説得力を与えようとするなら、そういう胡散臭いサイトは自分の中での参考以上には使用せず、返信としては公式ページから引用するだろう。その意味で、「前書かなかっただけ」という言葉はどうも信憑性に欠けます。
>これが「日本侵略に積極的に加担」でなければ何なんだ?
それがどうしたっていうんです? すでに書いたように、その「事実」は、柄谷学説に対する直接的な反証にはなりません。
ところで、別の方が、ウヨクの匿名情報にしか頼れないアイタタタタさんを不憫に思って援護されてます。その方の視点は一応柄谷学説へのアンチとしてそれなりに成立します。ところが、たとえばチロノカイヌシさんも尊敬する歴史学者の網野善彦はこう書いています。
モンゴルは1231年、高麗に侵攻し、1234年には金を滅ぼして華北を支配下に入れた。当時、武人が政権を掌握していた高麗は、たびたびの“モンゴル進入に対して頑強に抵抗し”、都を開京から江華島に移し、そこで高麗王朝最大の事業、大蔵経の再刊を実現するなど、“依然としてモンゴルに対する反抗の姿勢をとり続けていた” 〜(中略)〜
モンゴルの圧力とモンゴルに服属する国王元宗に対し、高麗の武人の反抗が強まり、フビライは高麗に武力介入した。これに応じて都を江華島から開京に戻そうとする元宗に対し、三別抄といわれる武人の組織が反乱を起こした 〜(中略)〜 1270年以来、“モンゴルに対して徹底的な抗戦姿勢をとっていた” 〜(中略)〜
しかし1272年、“粘り強く抵抗を続けていた”三別抄の最後の根拠地耽羅(済州島)がモンゴル軍 〜(中略)〜 によって攻略され、高麗の反モンゴル勢力を根絶させたフビライは、遠征を無意味とする趙良弼の諫言をしりぞけ、1274年(文永11)、高麗に強制してつくらせた900艘の舟に二万の元軍と一万数千の高麗軍を乗せ、日本に向けて発進させた
『日本社会の歴史(中)』網野善彦
(注・“”は私が記入)
その“”内を抜き出します。
モンゴル進入に対して頑強に抵抗し
依然としてモンゴルに対する反抗の姿勢をとり続けていた
モンゴルに対して徹底的な抗戦姿勢をとっていた
粘り強く抵抗を続けていた
以上ですね。つまり、網野も朝鮮はモンゴルに強く抵抗したと書いてるわけです。ですから、ウヨクのアイタタタタさん救済を目的に突然出現したこの“正体不明の匿名さん”がいう、
>モンゴル軍は高麗の抵抗など全く問題にしていません
>その後の30年間、朝鮮半島はただモンゴル軍に奴隷や略奪品を供給し続けていただけです
>モンゴル軍は30年間の高麗侵攻で、力を使い切るどころか、逆に肥え太ったのです
というのは、少なくとも“著名な歴史学者”網野や“世界レベルの知性”柄谷の見解と明確に対立します。
これは メッセージ 97836 (ai_tatatata さん)への返信です.
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