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「南京」の後に「陛下」とは呼べない③

投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2007/07/07 14:19 投稿番号: [97191 / 99628]
当たり前のことですが、ハンナ・アーレントやE・H・カーを引いて、歴史とは裁かれるものだ、と述べました。じっさい、それを否定する hidarino5 さんも歴史を裁きまくってます。「朝鮮の支配層が安閑としていたから日本に併合された、南京防衛軍が脆弱だったから日本軍にやられた、戦後朝鮮人が傍若無人に振る舞った、関東大震災後虐殺されたのは朝鮮人に責任がある」等々これらは負の断罪ですが、一方「日本は頑張った、日本が戦争したことでアジアが開放された、民衆を飢餓から救うために為政者は努力した、朝鮮でインフラを整備して生活を向上させた、すばらしい植民地支配だった」等々これらは良い方向への評価(=裁く)です。なんてことはない、ただ自分たちは良かった、他者は悪かった、そういう裁きを露骨に至るところで展開しております。

「魂」に話しを戻せば、現在を生きる我々がどれだけそれを脳裏に引き寄せても、それは現在の目線から色付けされた相対的なそれにすぎず、つまり、現在の価値観からそれを語っているにすぎないのは哲学上明らかだ、と何度も申し上げました。しかし、そうではない、昔の人のそれでしかありえない絶対的な魂があるのだ、といまだ主張されるのは、ソシュール言語学以後の学問的系譜を知らない、19世紀で時間を止めた無学な人のあまりに素朴な固定観念が邪魔するからです。

なぜ我々は歴史を学ぶのか?   それは、この多様化したポストモダン社会に中で喪失した(と感じる)拠り所を再発見し、そこに同化するためではありません。すでに紹介したヴァイツゼッカーの言葉にあるように、歴史に学び、過ちを繰り返さず、現在へと有意義に繋いでいくためなのです。現在の我々の中に、歴史の過ちを再現する要素を取り除くためにも、とうぜん、歴史を批判的に見つめる必要も生じてくるわけです。
アウシュビッツに象徴される野蛮と西欧文化との本質的な癒着を見抜いたアドルノは、「アウシュビッツの後に詩を書くのは野蛮である」と言いました。それは、

「間違いでないのは、アウシュビッツの後ではまだ生きることができるかという文化的問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、まだ生きていてよいのかという問題である。彼が行き続けていくためには冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュビッツそのものも可能ではなかったであろう市民的主観性の根本原理なのである」『否定弁証法』

とあるように、つまり、市民的主観性(=西欧文化)が可能にした大量殺戮という過去の後に、その文化を温存した社会を替えることなく、そこに生きていくのは、つまるところ、アウシュビッツ的なものを繰り替えす土壌を残し、またそれに加担するものだから、という意味です。誰もがニュース映像などで知っている、ドイツ国民が壇上の総統へ向けたあの「ほとんど淫蕩なまなざし(三島憲一)」が何に由来したのかが反省されるべきなのです。

我々の社会に目を転じるなら、天皇の名のもとに行われた侵略戦争、「陛下の赤子」という誇りと大義により支えられたファシズムの民衆レベルな精神、天皇を頂点として権威化された高圧的な秩序、いまなおその文化構造への反省を欠いた態度は、たとえば、昭和の末期に示された御記帳約1000万人に、(それが消費社会の中の消費行為にすぎない部分があれども)表われています。この現象を指して、いわゆる未開社会におけるトーテム信仰としての天皇制を象徴的にあぶり出して「土人の国」と浅田彰はいったのかもしれませんが、その「土人」性が負の歴史への批判なきゆえに反復され、ある一定の人々の中に温存されて継がれてる現状は、アドルノ的にいえば、“「南京」の後に天皇「陛下」と呼ぶのは野蛮である”となります。
我々は、過去に学び、進歩せねばなりません。問われているのは、政治文化なのです。
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