「南京」の後に「陛下」とは呼べない②
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2007/07/07 13:51 投稿番号: [97190 / 99628]
歴史を批判(=裁く)するのは間違いだ、当時生きた人々の魂を描き出すのが歴史だ、と hidarino5 さんはいわれます。これは学問的に間違いだと断言しましたが、その学問が「非常識」だと反論が返りました。何が「常識」で何が「非常識」かは、個人がその思い込みと願望から独りよがりに規定できません。我々は学問的に捉える必要があるのです。(これは No.97103 への返信でもあります)
いくつかの錯誤が指摘できますが、まず第一に、この民主主義社会において歴史の編纂権は権力に独占的に付与されていません。勝者が歴史を作ってきた、というのは、正史(=権力が編む歴史)ではその通りですが、それは、
「我々は殷の紂王を暴虐無道でこれ以上の悪人はいないと史書から学んだ。だが、発掘された甲骨片から、彼の先代は人間を殺して祭祀の犠牲にしていたのに、紂王の代でやめたことがわかった。悪人どころがむしろ善人らしいのだ。史書は後の勝利者によって書かれた。歴史を見るとき、常に念頭に置くべきであろう」陳舜臣(朝日新聞2007年6月25日)
という、むしろその勝者の歴史(=正史)を疑えという警告として持ち出されるべき観点なのです。ところが、自己愛史観では、権力の「魂」や天皇だけが強調される点から明らかなように、彼らの目指す歴史とは、まさにその胡散臭い「正史」にほかならず、そこから得られる教育的成果とは、恥ずかしいほどに傍若無人な自己肯定へと墜落し、ここの諸君に見られるような、他者への気遣いを欠いた我がまま坊やを機械的に生産するだけです。
次に、魂に触れるなら、たとえば、天皇の軍隊に虐殺されたアジアの民衆の魂にも触れてみろ、キノコ雲の下で起きた惨禍を想像せよ、強制連行により炭鉱での重労働に苦しんだ中国人朝鮮人の魂も忘れるな、ということです。hidarino5 さんに顕著ですが、南京で戦場の恐怖を味わった日本人の魂には同情するが、その犠牲になった人々は無視されます。その結果、誕生するのが自己愛史観です。触れるべき魂は、実は都合よく自己愛的に最初から選択されているのです。想像力の徹底した欠如! これこそが、ここで問われるべき問題なのかもしれません。
大阪大空襲が思想の原体験という小田実はこう書いています。
「黒煙と白煙が広がる大阪大空襲の写真。私はその煙の下で地獄を体験していた。でもアメリカ人にはただの一枚の写真だよ。ショックだったね。でも私も、日本軍が南京や重慶を爆撃するニュース映像を見たときは何も感じていなかった。やられる側に立たないと見えない真実がある」(朝日新聞2007年6月27日)
「殺す側の論理(本多勝一)」は英雄的で誇らしく、「殺される側の論理(本多勝一)」は抑圧忘却、または最初から眼中にない、そこを想像すらできないのは、ベトナム戦争すらも知らない、戦争といえばイラクのスカッドミサイルを迎撃するアメリカのパトリオットミサイル、両者が夜空で激突する花火のような人工的映像からゲーム感覚に体験し、もの心ついたときには高度消費社会の中にいた hidarino5 さんには仕方ない部分もありますが、それでも、我々はそれを学ぶことができます。
にもかかわらず、「ダンサーインザダーク」論議の中で明かされたのは、他者の体験を自分の中に取り込み内在的に理解して共感するという、人間に人間として不可欠な文学的体験の、それの摂取すら決定的に遮断された没感性です。「人を殺して何が悪い?」とほざく中学生と同程度な「国家(人)は国益(私益)のために何してもいいのだ」といった稚拙な「思想」は、こういった人間的な未熟に本質的な原因を求められるようです。
いくつかの錯誤が指摘できますが、まず第一に、この民主主義社会において歴史の編纂権は権力に独占的に付与されていません。勝者が歴史を作ってきた、というのは、正史(=権力が編む歴史)ではその通りですが、それは、
「我々は殷の紂王を暴虐無道でこれ以上の悪人はいないと史書から学んだ。だが、発掘された甲骨片から、彼の先代は人間を殺して祭祀の犠牲にしていたのに、紂王の代でやめたことがわかった。悪人どころがむしろ善人らしいのだ。史書は後の勝利者によって書かれた。歴史を見るとき、常に念頭に置くべきであろう」陳舜臣(朝日新聞2007年6月25日)
という、むしろその勝者の歴史(=正史)を疑えという警告として持ち出されるべき観点なのです。ところが、自己愛史観では、権力の「魂」や天皇だけが強調される点から明らかなように、彼らの目指す歴史とは、まさにその胡散臭い「正史」にほかならず、そこから得られる教育的成果とは、恥ずかしいほどに傍若無人な自己肯定へと墜落し、ここの諸君に見られるような、他者への気遣いを欠いた我がまま坊やを機械的に生産するだけです。
次に、魂に触れるなら、たとえば、天皇の軍隊に虐殺されたアジアの民衆の魂にも触れてみろ、キノコ雲の下で起きた惨禍を想像せよ、強制連行により炭鉱での重労働に苦しんだ中国人朝鮮人の魂も忘れるな、ということです。hidarino5 さんに顕著ですが、南京で戦場の恐怖を味わった日本人の魂には同情するが、その犠牲になった人々は無視されます。その結果、誕生するのが自己愛史観です。触れるべき魂は、実は都合よく自己愛的に最初から選択されているのです。想像力の徹底した欠如! これこそが、ここで問われるべき問題なのかもしれません。
大阪大空襲が思想の原体験という小田実はこう書いています。
「黒煙と白煙が広がる大阪大空襲の写真。私はその煙の下で地獄を体験していた。でもアメリカ人にはただの一枚の写真だよ。ショックだったね。でも私も、日本軍が南京や重慶を爆撃するニュース映像を見たときは何も感じていなかった。やられる側に立たないと見えない真実がある」(朝日新聞2007年6月27日)
「殺す側の論理(本多勝一)」は英雄的で誇らしく、「殺される側の論理(本多勝一)」は抑圧忘却、または最初から眼中にない、そこを想像すらできないのは、ベトナム戦争すらも知らない、戦争といえばイラクのスカッドミサイルを迎撃するアメリカのパトリオットミサイル、両者が夜空で激突する花火のような人工的映像からゲーム感覚に体験し、もの心ついたときには高度消費社会の中にいた hidarino5 さんには仕方ない部分もありますが、それでも、我々はそれを学ぶことができます。
にもかかわらず、「ダンサーインザダーク」論議の中で明かされたのは、他者の体験を自分の中に取り込み内在的に理解して共感するという、人間に人間として不可欠な文学的体験の、それの摂取すら決定的に遮断された没感性です。「人を殺して何が悪い?」とほざく中学生と同程度な「国家(人)は国益(私益)のために何してもいいのだ」といった稚拙な「思想」は、こういった人間的な未熟に本質的な原因を求められるようです。
これは メッセージ 97172 (hidarino5 さん)への返信です.
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