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追放後のユダヤ人1

投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/27 17:19 投稿番号: [60930 / 99628]
V 追放後のユダヤ人 第2のユダヤ人国家の滅亡と反ユダヤ主義の蔓延(まんえん)は、しかしながら、ユダヤ人の解体にはつながらなかった。

1 寄留地での宗教的発展 この事態に対するユダヤ人の側からの答えが、「ユダヤ教」とよばれる追放後の宗教の発展だった。ユダヤ人をひきつづき一つにむすびつけたものは、共通の言語、すべてのユダヤ人がまなび知ることを義務づけられた文学的遺産、しっかりと組織化された共同生活と社会機関、そしてユダヤ人のたえざるメシア待望だった。

追放後の最初の6世紀間、律法の教師やラビたちは、膨大な口伝律法と宗教的解釈を「ミシュナ」と「ゲマラ」に書きおろした。両者はあわせて「タルムード」とよばれる。ユダヤ教の学問の主要な中心地はパレスティナ、とくにガリラヤと、バビロニアだった。バビロニアははじめパルティアの支配下にあったが、227年以降はササン朝ペルシャの支配をうけた。バビロニアには前6世紀以降、有力なユダヤ人共同体が存在しており、それがこの時代になると、各地に寄留するユダヤ人にもっとも強い影響力をおよぼすようになった。

バビロニアのユダヤ人共同体の首長は、レシュ・ガルータ(捕囚民の長)とよばれる管理者だった。バビロニアのスーラとプンベディタにある2つのユダヤ教の学院が、各地のユダヤ人共同体全体に名声を博した。後1〜2世紀にかけて、口伝律法の文書化と編纂(へんさん)に尽力した学者たちは、タンナイーム(アラム語の「おしえる」に由来)とよばれる。彼らの活動をついだのが、3世紀のアモライーム(アラム語の「説明する」に由来)と5世紀のサボライーム(アラム語の「考察する」に由来)とよばれる編集者たちである。

「ミシュナ」に対する注釈である「ゲマラ」の完成により、「バビロニア・タルムード」が6世紀初頭に完結した。より完成度の低い「パレスティナ・タルムード」(別名「エルサレム・タルムード」)は、それよりほぼ1世紀前に現在のかたちにまとめられた。その後のバビロニアの学院長はゲオニーム(ヘブライ語で「気高い者」を意味するガオンの複数形)とよばれた。彼らは地中海周辺各地のユダヤ人からさまざまな宗教的な質問をうけ、それにこたえる回答状(レスポンサ)は標準的な宗教的習慣の中にとりいれられた。

2 イスラムの寛容 イスラムの台頭は、バビロニアのユダヤ共同体には大した混乱をひきおこさなかった。イスラム軍は637年にメソポタミアを占領し、その後イスラム教が国教となった。第2代カリフ、ウマル1世の発布したウマル法典は、形式的にはユダヤ人にさまざまな制限を課すものだった。たとえば、ユダヤ人は政治的な役職につくことができなくなり、イスラム教徒の召し使いをもつことも禁止された。武器を携帯することや、シナゴーグを新たにたてたり、改築することが禁じられ、大声で礼拝することもゆるされなかった。それどころか、ひと目みてユダヤ人とわかるように、袖に黄色のあて布をつけることを義務づけられた。

しかしその後、バグダッドのアッバース朝のカリフたちは、ウマル法典に拘束されず、ユダヤ人が事実上の自治をおこなうことをゆるした。ユダヤ人に課せられた制限の歴史的意味は、むしろのちにそれらがキリスト教によってヨーロッパにつたえられ、ヨーロッパのユダヤ人に強制されたことにある。

イスラム教徒の寛容の時代には、イスラム教徒とユダヤ人の協力の結果、ギリシャとイスラムとユダヤの学問を融合した文化がいちじるしく発達した。そのころ、ヨーロッパはまだ、いわゆる「暗黒時代」(今日では「中世」とよばれる、5〜15世紀)の中にあった。
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