追放後のユダヤ人2
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/27 17:19 投稿番号: [60931 / 99628]
3 中世ヨーロッパのユダヤ人 10世紀の中葉には、聖俗をふくめた学問の中心はメソポタミアから、当時イスラム国家だったスペインにうつった。スペインには、ローマ帝国が台頭する以前からユダヤ人居住地があったが、その後、同地のユダヤ人は長い間、とくに6世紀にカトリックをうけいれた西ゴート族の支配者によってきびしい迫害をうけていた。イスラム勢力のスペイン征服は、同地のユダヤ人にとって平和の到来を意味した。彼らは、政治家、医師、金融業者、学者などとして、高い地位をきずくようになる。ユダヤ人の学者たちは、ヨーロッパにおけるルネサンス(14〜17世紀)の始まりに貢献した。彼らの翻訳を通じて、古代ギリシャの古典文献がはじめて西ヨーロッパにもちこまれたからである。
スペインの平和な時代は、イベリア半島のイスラム支配の終焉(しゅうえん)とともに終止符をうたれた。スペインを奪還したカトリックの王のもとで、スペインのユダヤ人は、ほかのヨーロッパ地方のユダヤ人と同様の低い社会的地位を強制された。中世を通じて、キリスト教国では、ユダヤ人迫害が日常茶飯事となった。迫害のほとんどは、すべてのユダヤ人がイエス・キリストの殺害の共犯者だと思いこんだ大衆によってひきおこされた、爆発的なものだった。十字軍時代(1095〜1270)には、当時の独特の宗教的な熱気の中で、何千というユダヤ人が虐殺された。
1215年には、教皇インノケンティウス3世が第4ラテラノ公会議を召集し、かつてのウマル法典に似た公式の規制政策を決定し、ひと目でユダヤ人とわかる特別の目印を身につけるように命じた。ヨーロッパじゅうで、ユダヤ人は軽蔑の対象となった。都市では、ユダヤ人は「ゲットー」とよばれる特別な地区にすむよう強制され、移動の自由はみとめられなかった。
13〜14世紀、ヨーロッパの一部の王や領主は、ユダヤ人の財産をさしおさえたり、その所有者を追放するなどして自分の財宝庫をみたした。1290年には、イングランド王エドワード1世がユダヤ人の財産を没収し、イングランドからユダヤ人を追放した。1394年には、フランスのシャルル6世がイギリスの例にならった。その結果、フランスにおけるユダヤ人の歴史は事実上終わりをむかえ、近代になるまで空白がつづいた。
14世紀のいわゆる「黒死病」(ペスト)の時代になると、ヨーロッパじゅうでユダヤ人迫害が当たり前のこととしておこなわれるようになった。彼らは、キリスト教徒の井戸に毒をなげこんだという嫌疑をかけられていた。スペインでは、教会による組織的な迫害の結果、多くのユダヤ人が、自分の命をすくうためにキリスト教に集団改宗した。多くの場合、そのような改宗は見かけだけのものだった。「マラノ」(スペイン語で「豚」を意味する)とよばれる改宗ユダヤ人の階級が成立したが、彼らはカトリックを奉じているようにみせかけながら、ひそかにユダヤ教を信じつづけた。
しかし、1478年にはスペインで異端審問が制度化され、マラノの迫害がはじまった。92年には、ユダヤ人がスペインから追放され、97年にはポルトガルからも追放された。
西ヨーロッパから追放されたユダヤ人難民は、大陸の東部に避難所をみいだした。そこで、何千というユダヤ人がトルコに移住した。トルコが、イスラムの寛容政策を維持していたからである。こうして16世紀には、ヨーロッパ最大のユダヤ人共同体がコンスタンティノープルに成立した。イングランド、フランス、ドイツ、スイスから追放されたユダヤ人の大部分は、ポーランドとロシアにうつりすんだ。1648年までに、ポーランドのユダヤ人共同体は、50万人以上にふくれあがっていた。
ポーランドのユダヤ人は、ポーランド王国内部に自治組織をもっており、ユダヤ教活動の中心となった。しかし、1648〜58年にかけて、フメルニツキーのひきいるウクライナのコサックによる大迫害がおき、ポーランドの無数のユダヤ人共同体が破壊された。これは、東ヨーロッパにおけるユダヤ人の没落の始まりだった。ユダヤ人には、知的職業も、同業組合(ギルド)加入も、農業も、大企業経営も禁じられた。彼らには、細々とした小規模な商業で生きていく道しかのこされていなかった。
スペインの平和な時代は、イベリア半島のイスラム支配の終焉(しゅうえん)とともに終止符をうたれた。スペインを奪還したカトリックの王のもとで、スペインのユダヤ人は、ほかのヨーロッパ地方のユダヤ人と同様の低い社会的地位を強制された。中世を通じて、キリスト教国では、ユダヤ人迫害が日常茶飯事となった。迫害のほとんどは、すべてのユダヤ人がイエス・キリストの殺害の共犯者だと思いこんだ大衆によってひきおこされた、爆発的なものだった。十字軍時代(1095〜1270)には、当時の独特の宗教的な熱気の中で、何千というユダヤ人が虐殺された。
1215年には、教皇インノケンティウス3世が第4ラテラノ公会議を召集し、かつてのウマル法典に似た公式の規制政策を決定し、ひと目でユダヤ人とわかる特別の目印を身につけるように命じた。ヨーロッパじゅうで、ユダヤ人は軽蔑の対象となった。都市では、ユダヤ人は「ゲットー」とよばれる特別な地区にすむよう強制され、移動の自由はみとめられなかった。
13〜14世紀、ヨーロッパの一部の王や領主は、ユダヤ人の財産をさしおさえたり、その所有者を追放するなどして自分の財宝庫をみたした。1290年には、イングランド王エドワード1世がユダヤ人の財産を没収し、イングランドからユダヤ人を追放した。1394年には、フランスのシャルル6世がイギリスの例にならった。その結果、フランスにおけるユダヤ人の歴史は事実上終わりをむかえ、近代になるまで空白がつづいた。
14世紀のいわゆる「黒死病」(ペスト)の時代になると、ヨーロッパじゅうでユダヤ人迫害が当たり前のこととしておこなわれるようになった。彼らは、キリスト教徒の井戸に毒をなげこんだという嫌疑をかけられていた。スペインでは、教会による組織的な迫害の結果、多くのユダヤ人が、自分の命をすくうためにキリスト教に集団改宗した。多くの場合、そのような改宗は見かけだけのものだった。「マラノ」(スペイン語で「豚」を意味する)とよばれる改宗ユダヤ人の階級が成立したが、彼らはカトリックを奉じているようにみせかけながら、ひそかにユダヤ教を信じつづけた。
しかし、1478年にはスペインで異端審問が制度化され、マラノの迫害がはじまった。92年には、ユダヤ人がスペインから追放され、97年にはポルトガルからも追放された。
西ヨーロッパから追放されたユダヤ人難民は、大陸の東部に避難所をみいだした。そこで、何千というユダヤ人がトルコに移住した。トルコが、イスラムの寛容政策を維持していたからである。こうして16世紀には、ヨーロッパ最大のユダヤ人共同体がコンスタンティノープルに成立した。イングランド、フランス、ドイツ、スイスから追放されたユダヤ人の大部分は、ポーランドとロシアにうつりすんだ。1648年までに、ポーランドのユダヤ人共同体は、50万人以上にふくれあがっていた。
ポーランドのユダヤ人は、ポーランド王国内部に自治組織をもっており、ユダヤ教活動の中心となった。しかし、1648〜58年にかけて、フメルニツキーのひきいるウクライナのコサックによる大迫害がおき、ポーランドの無数のユダヤ人共同体が破壊された。これは、東ヨーロッパにおけるユダヤ人の没落の始まりだった。ユダヤ人には、知的職業も、同業組合(ギルド)加入も、農業も、大企業経営も禁じられた。彼らには、細々とした小規模な商業で生きていく道しかのこされていなかった。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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