全斗煥、盧泰愚政権
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 19:11 投稿番号: [59526 / 99628]
3 全斗煥
1979年、釜山や馬山で大規模なデモが暴力的に鎮圧される事態が生じた。緊張した情勢下にあった10月27日、朴大統領は側近のKCIA部長金載圭(キム・ジェギュ)によって暗殺され、ふたたび政治の激変期がはじまった。朴大統領の死をうけて国務総理崔圭夏(チェ・ギュハ)が大統領となったが、戒厳司令部合同捜査本部長全斗煥将軍が、ほどなく実権をにぎるようになった。同年12月、全将軍は粛軍クーデタによって軍部を完全に掌握し、民主化への動きを封じた。
1980年5月17日に全将軍は非常戒厳令を発し、金大中、金鍾泌ら有力政治家を拘束、翌18〜27日の光州事件では軍を動員した徹底的な弾圧をおこなった。軍部の圧力の前に崔大統領は辞任し、全斗煥は同年8月27日に大統領に選出された。10月27日には、大統領の任期を7年とするなど大幅な改変をもりこみながらも、維新憲法的な色彩をのこした憲法改正案が国民投票によって採択された(第5共和国憲法)。
全大統領の政権は、1988年の夏季オリンピック大会の招致によって外交的成功をおさめた。また、83年に日本の中曽根康弘首相がソウルを訪問し、82〜86年の経済開発5カ年計画への支援として40億ドルにのぼる対韓経済協力を提供したことも、全政権の外交的成果だった。
1983年9月1日早朝、ニューヨーク発ソウル行きの大韓航空機がソ連領内に侵入、ソ連側の戦闘機に撃墜され、乗客240人と乗員29人が全員死亡した。韓国政府はソ連政府に公式謝罪をもとめ、街頭では大規模なデモがおこなわれた。ソ連は大韓航空機がスパイ活動をおこなっていたと主張した。92年10月になってロシアのエリツィン大統領が明らかにしたKGBの資料からは、韓国側の主張に正当性のあったことが読みとれる。
一方、朝鮮半島の南北関係は1960年代後半以来、何度か緊張状態をくりかえしたが、80年代初めにもさまざまな事件があった。83年10月9日には、ビルマ(現ミャンマー)を公式訪問中の全斗煥大統領をねらって北朝鮮の工作員がしかけた爆弾が、ラングーン(現ヤンゴン)のアウンサン廟(びょう)で爆発し、韓国の閣僚4人、ほかの韓国人13人をふくむ21人が犠牲となった。南北関係は80年代半ばには好転し、85年には朝鮮戦争以来、南北にわかれてくらすことになった離散家族の相互訪問の道が開かれた。84年9月、全斗煥は韓国大統領としてはじめて日本を公式訪問した。
4 盧泰愚政権
1987年には各地で民主化をもとめる運動がもりあがり、ついに6月には与党の民主正義党(民正党)の盧泰愚(ノ・テウ)代表委員が、民主化政策への転換による事態収拾を全斗煥大統領にもとめる事態にいたった。このため全大統領も、大統領の直接選挙制への移行をふくむ民主化への譲歩をせざるをえなくなった。同年12月におこなわれた大統領選挙では、野党側の候補者が一本化せず、与党がおした軍部出身の盧泰愚が、36.6%の得票率ながら当選をはたした。
1990年2月、盧泰愚政権は政権基盤安定のため、野党である金泳三の民主党と金鐘泌の共和党に譲歩して、両党と民正党を合併し、議会の3分の2以上の議席を占める強力な与党、民主自由党(民自党)を結成した。内政の安定を背景に、盧政権は積極的な外交を展開した。6月のゴルバチョフソ連大統領との初の韓ソ首脳会談をへて、9月にはソ連と国交をむすんだ。また同月、初の南北首相会談を実現させ、91年9月の国連への南北同時加盟へ道を開き、92年2月には「南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書」と「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」の調印にこぎつけた。
1992年1月には、日本の宮沢喜一首相が訪韓し、植民地支配に対して公式に謝罪した。しかし、このようなめざましい外交成果にもかかわらず、同年3月の総選挙で、民自党は最多議席を確保したものの過半数を1議席したまわり、政局はふたたび流動化した。こうした中で金泳三が民自党の大統領候補となり、12月の大統領選挙では42%の得票率で当選した。得票が33.8%にとどまった金大中候補は、政界引退を表明した。
1979年、釜山や馬山で大規模なデモが暴力的に鎮圧される事態が生じた。緊張した情勢下にあった10月27日、朴大統領は側近のKCIA部長金載圭(キム・ジェギュ)によって暗殺され、ふたたび政治の激変期がはじまった。朴大統領の死をうけて国務総理崔圭夏(チェ・ギュハ)が大統領となったが、戒厳司令部合同捜査本部長全斗煥将軍が、ほどなく実権をにぎるようになった。同年12月、全将軍は粛軍クーデタによって軍部を完全に掌握し、民主化への動きを封じた。
1980年5月17日に全将軍は非常戒厳令を発し、金大中、金鍾泌ら有力政治家を拘束、翌18〜27日の光州事件では軍を動員した徹底的な弾圧をおこなった。軍部の圧力の前に崔大統領は辞任し、全斗煥は同年8月27日に大統領に選出された。10月27日には、大統領の任期を7年とするなど大幅な改変をもりこみながらも、維新憲法的な色彩をのこした憲法改正案が国民投票によって採択された(第5共和国憲法)。
全大統領の政権は、1988年の夏季オリンピック大会の招致によって外交的成功をおさめた。また、83年に日本の中曽根康弘首相がソウルを訪問し、82〜86年の経済開発5カ年計画への支援として40億ドルにのぼる対韓経済協力を提供したことも、全政権の外交的成果だった。
1983年9月1日早朝、ニューヨーク発ソウル行きの大韓航空機がソ連領内に侵入、ソ連側の戦闘機に撃墜され、乗客240人と乗員29人が全員死亡した。韓国政府はソ連政府に公式謝罪をもとめ、街頭では大規模なデモがおこなわれた。ソ連は大韓航空機がスパイ活動をおこなっていたと主張した。92年10月になってロシアのエリツィン大統領が明らかにしたKGBの資料からは、韓国側の主張に正当性のあったことが読みとれる。
一方、朝鮮半島の南北関係は1960年代後半以来、何度か緊張状態をくりかえしたが、80年代初めにもさまざまな事件があった。83年10月9日には、ビルマ(現ミャンマー)を公式訪問中の全斗煥大統領をねらって北朝鮮の工作員がしかけた爆弾が、ラングーン(現ヤンゴン)のアウンサン廟(びょう)で爆発し、韓国の閣僚4人、ほかの韓国人13人をふくむ21人が犠牲となった。南北関係は80年代半ばには好転し、85年には朝鮮戦争以来、南北にわかれてくらすことになった離散家族の相互訪問の道が開かれた。84年9月、全斗煥は韓国大統領としてはじめて日本を公式訪問した。
4 盧泰愚政権
1987年には各地で民主化をもとめる運動がもりあがり、ついに6月には与党の民主正義党(民正党)の盧泰愚(ノ・テウ)代表委員が、民主化政策への転換による事態収拾を全斗煥大統領にもとめる事態にいたった。このため全大統領も、大統領の直接選挙制への移行をふくむ民主化への譲歩をせざるをえなくなった。同年12月におこなわれた大統領選挙では、野党側の候補者が一本化せず、与党がおした軍部出身の盧泰愚が、36.6%の得票率ながら当選をはたした。
1990年2月、盧泰愚政権は政権基盤安定のため、野党である金泳三の民主党と金鐘泌の共和党に譲歩して、両党と民正党を合併し、議会の3分の2以上の議席を占める強力な与党、民主自由党(民自党)を結成した。内政の安定を背景に、盧政権は積極的な外交を展開した。6月のゴルバチョフソ連大統領との初の韓ソ首脳会談をへて、9月にはソ連と国交をむすんだ。また同月、初の南北首相会談を実現させ、91年9月の国連への南北同時加盟へ道を開き、92年2月には「南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書」と「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」の調印にこぎつけた。
1992年1月には、日本の宮沢喜一首相が訪韓し、植民地支配に対して公式に謝罪した。しかし、このようなめざましい外交成果にもかかわらず、同年3月の総選挙で、民自党は最多議席を確保したものの過半数を1議席したまわり、政局はふたたび流動化した。こうした中で金泳三が民自党の大統領候補となり、12月の大統領選挙では42%の得票率で当選した。得票が33.8%にとどまった金大中候補は、政界引退を表明した。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834688/4z9qa4ua46a41a4sa4j_1/59526.html