大韓民国建国、李承晩、朴正煕
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 19:11 投稿番号: [59525 / 99628]
大韓民国は、1948年8月15日に建国を宣言した。この年の5月に、米軍の占領下、国連代表団の監視のもとで総選挙がおこなわれて制憲国会が成立し、国会は議員による間接選挙で、初代大統領に李承晩(イ・スンマン)をえらんだ。左翼はこの総選挙をボイコットしたので、国会の構成はきわめて反共色が強く、大統領もまた徹底した反共主義者だった。
1 李承晩と第2共和国 大韓民国の成立直後から、政府は左翼勢力に弾圧をくわえた。左翼の中には独自路線をとる者もあったが、多くは北朝鮮を支持していた。左翼の封じ込めはおおむね成功したが、一面ではこれが北朝鮮との対立をきびしくした。1950年6月に北朝鮮の南侵によって朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した。北朝鮮が全面的攻撃を展開したこの戦争は、民衆生活から政治までを混乱におとしいれ、李承晩大統領は国会の支持をうしないはじめた。戦争中の52年、大統領は軍を動員して国会を屈服させ、大統領を国民の直接選挙でえらぶように憲法改正をおこない、再選された。
朝鮮戦争後の復興はなかなかすすまなかった。アメリカによる経済援助があったにもかかわらず、大統領は有効な経済開発政策をすすめることができなかった。1956年、60年と、李承晩は大統領に楽々と再選されたが、60年選挙における露骨な選挙結果の操作は全国的な反発をよび、いわゆる四月革命(学生革命)がおこった。大統領は4月27日に退陣し、翌月にはハワイに亡命した。
この後をうけ、権限が大幅に制限された大統領には尹鎬善(ユン・ポソン)、実権をもった国務総理には張勉(チャン・ミョン)が就任した。張国務総理の政権は自由化の方向でさまざまな分野の改革をすすめ、1960年6月15日には民主的な憲法改正(第2共和国憲法)をおこなったが、経済は停滞しつづけた。社会の不安定化と、北との対話をもとめる学生たちのアジテーションに危機感をいだいた軍部は、61年5月16日にクーデタをおこし、第2共和国は1年足らずで打倒された。
2 朴正煕の第3共和国 1962年12月26日には、大統領に権力を集中させる憲法改正がおこなわれた(第3共和国憲法)。朴正煕(パク・チョンヒ)のひきいる軍部は、63年10月まで軍政をしいたが、大統領選挙に朴が辛勝したのをうけて民政への移行がおこなわれた。
朴大統領は、学生らの広範な反対をおさえて1965年に日韓条約をむすび、賠償請求の放棄と引き換えに日本から経済援助をひきだした。その結果、条約締結後は日本からの資本導入がすすんだ。韓国はまた、ベトナム戦争(1959〜75)の間、アメリカを支援する立場から実戦部隊や契約労働者をベトナムに派遣し、外貨を獲得した。こうした資金導入の結果、産業化と輸出の拡大が急激にすすんだ。
朴政権は強権的な支配体制をきずいた。政治を支配した彼の民主共和党は、政治資金の操作を通じて反対勢力をおさえこんだ。さらに、韓国中央情報部(KCIA)が諜報(ちょうほう)活動や対北朝鮮工作にあたり、国内の反体制派を封じこめた。しかし、1971年の大統領選挙では野党新民党の金大中が善戦し、政権は強い危機感をもった。
1972年になると、朴大統領は「維新体制」をとなえて戒厳令をしき、12月27日には政権の事実上の恒久化を可能にする、いわゆる「維新憲法」を公布した(第4共和国憲法)。憲法改正後の数カ月に、さまざまな緊急措置によって市民の自由は制約され、敵対する政治勢力は排除された。こうした中で、73年には金大中が東京のホテルから拉致(らち)される「金大中事件」がおきた。強権的支配のもとで、積極的な産業政策が推進されて経済はめざましい成長をとげ、韓国製品は西側世界市場を席巻(せっけん)したが、朴政権に対する不満はしだいに高まっていった。
1 李承晩と第2共和国 大韓民国の成立直後から、政府は左翼勢力に弾圧をくわえた。左翼の中には独自路線をとる者もあったが、多くは北朝鮮を支持していた。左翼の封じ込めはおおむね成功したが、一面ではこれが北朝鮮との対立をきびしくした。1950年6月に北朝鮮の南侵によって朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した。北朝鮮が全面的攻撃を展開したこの戦争は、民衆生活から政治までを混乱におとしいれ、李承晩大統領は国会の支持をうしないはじめた。戦争中の52年、大統領は軍を動員して国会を屈服させ、大統領を国民の直接選挙でえらぶように憲法改正をおこない、再選された。
朝鮮戦争後の復興はなかなかすすまなかった。アメリカによる経済援助があったにもかかわらず、大統領は有効な経済開発政策をすすめることができなかった。1956年、60年と、李承晩は大統領に楽々と再選されたが、60年選挙における露骨な選挙結果の操作は全国的な反発をよび、いわゆる四月革命(学生革命)がおこった。大統領は4月27日に退陣し、翌月にはハワイに亡命した。
この後をうけ、権限が大幅に制限された大統領には尹鎬善(ユン・ポソン)、実権をもった国務総理には張勉(チャン・ミョン)が就任した。張国務総理の政権は自由化の方向でさまざまな分野の改革をすすめ、1960年6月15日には民主的な憲法改正(第2共和国憲法)をおこなったが、経済は停滞しつづけた。社会の不安定化と、北との対話をもとめる学生たちのアジテーションに危機感をいだいた軍部は、61年5月16日にクーデタをおこし、第2共和国は1年足らずで打倒された。
2 朴正煕の第3共和国 1962年12月26日には、大統領に権力を集中させる憲法改正がおこなわれた(第3共和国憲法)。朴正煕(パク・チョンヒ)のひきいる軍部は、63年10月まで軍政をしいたが、大統領選挙に朴が辛勝したのをうけて民政への移行がおこなわれた。
朴大統領は、学生らの広範な反対をおさえて1965年に日韓条約をむすび、賠償請求の放棄と引き換えに日本から経済援助をひきだした。その結果、条約締結後は日本からの資本導入がすすんだ。韓国はまた、ベトナム戦争(1959〜75)の間、アメリカを支援する立場から実戦部隊や契約労働者をベトナムに派遣し、外貨を獲得した。こうした資金導入の結果、産業化と輸出の拡大が急激にすすんだ。
朴政権は強権的な支配体制をきずいた。政治を支配した彼の民主共和党は、政治資金の操作を通じて反対勢力をおさえこんだ。さらに、韓国中央情報部(KCIA)が諜報(ちょうほう)活動や対北朝鮮工作にあたり、国内の反体制派を封じこめた。しかし、1971年の大統領選挙では野党新民党の金大中が善戦し、政権は強い危機感をもった。
1972年になると、朴大統領は「維新体制」をとなえて戒厳令をしき、12月27日には政権の事実上の恒久化を可能にする、いわゆる「維新憲法」を公布した(第4共和国憲法)。憲法改正後の数カ月に、さまざまな緊急措置によって市民の自由は制約され、敵対する政治勢力は排除された。こうした中で、73年には金大中が東京のホテルから拉致(らち)される「金大中事件」がおきた。強権的支配のもとで、積極的な産業政策が推進されて経済はめざましい成長をとげ、韓国製品は西側世界市場を席巻(せっけん)したが、朴政権に対する不満はしだいに高まっていった。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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