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天明の飢饉1

投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/22 16:05 投稿番号: [58339 / 99628]
天明の飢饉   てんめいのききん   天明年間(1781〜89)に全国をおそった飢饉。享保の飢饉・天保の飢饉とならぶ江戸時代の三大飢饉のひとつ。とくに1783年(天明3)は大凶作で、東北地方を中心に深刻な被害がでた。前年からの冷害で収穫量が少なかったところに、この年も春から風雨がつづき、夏になっても寒さがきびしいという天候不順がおもな原因だった。収穫は平年の約4割といわれ、山間部ではまったく収穫のなかったところも多かった。天候不順にくわえて、この年7月の浅間山の大噴火で関東・甲信越から東北地方まで火山灰がふり、日照をさえぎったために、こののち数年間冷夏がつづいた。

被害をさらにひろげたのは、東北諸藩の廻米(かいまい)と津留(つどめ)政策である。自領の米が流出しないようおこなった津留が米の流通をストップし、さらに江戸や大坂の商人からの借金で慢性的な財政危機にあった領主は年貢米も江戸・大坂におくってしまったため、藩元では米穀が不足し餓死者をふやした。人びとは草根をはじめ、犬猫や死人の肉までたべたともいわれ、1784年には衛生状態の悪化から疫病が大流行した。もっとも被害の大きかった弘前藩では、死者13万人余、他国にのがれた者が2万人あったという。

1785年に東北地方を旅行した菅江真澄は、紀行文「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」に、農民がいなくなった寒村の草むらに白骨が数多く散乱する様子をしるしている。ただし同じ東北地方でも、これより前に荒廃した農村の復興に力をいれていた上杉治憲の米沢藩や、のち寛政の改革をすすめた松平定信の白河藩では被害がきわめて小さかったことからすると、人災が被害を大きくした面がひじょうに強かった。

幕府や諸藩ではお救い小屋をもうけて、窮民に粥(かゆ)や米をあたえたが、あくまで応急処置で、1787年の飢饉のときは米価の高騰から江戸・大坂で大規模な打ちこわしが頻発した。また、寛政の改革では、飢饉対策が改革の柱の1つとされ、義倉(ぎそう)・囲米など飢饉にそなえた貯穀や、江戸流入の流浪農民の帰農奨励が実施されることになる。
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