第二話 自由
投稿者: hafez0211 投稿日時: 2010/04/01 00:30 投稿番号: [3561 / 3876]
地下にある古い喫茶店の約半分の席をイラン人男性が占領し、互いに早口のペルシャ語をまくし立てている姿は圧巻だった。
「遅れてすみません」と言って、私は席をひとつ空けてもらった。
初めて会う人ばかりで、知り合いはわずかだった。
「今ね、ドイツで暗殺されたイラン人ジャーナリストの件をめぐって、彼らは意見を戦わせているところらしいんです」と年配の日本人男性松崎氏が説明してくれる。
私は(なんだか喧嘩しているみたい。どうして冷静に話し合えないのかしら)と思いながら、その様子を眺めていた。
今回の暗殺事件をめぐり、海外では抗議活動が活発となってきており「在日イラン人も連帯するべき」という声が高まりこの会合は持たれたのであるが、「一人一党」状態で具体的にどのように支援活動をしていくか、などの方向性が定まらないでいた。
私はそれまで全く政治活動などに参加したことはなく、なんだか場違いなところに自分がいる気がしたが、友人のアリ氏に誘われ興味本位で顔を出したのだった。
3時間近く話し合いは持たれたが、イラン人というのは譲歩するということを知らないのであろうか?全く進展のないまま又、参加していた日本人も意見を挟めぬまま次週の日程だけを決め散会した。
翌週行ってみると、人数は3分の2位に減っていた。
けれども、その日の話し合いは日本語を流暢に話せるタバタバイー氏とアリ氏が中心となり、事件の発端からドイツで抗議活動の一環として篭城をしハンガーストライキをしているグループがいるという現状報告などが行われ、日本人にも十分状況が把握できた。
祖国をやむなく離れ、外国で差別を受けながら必死にイランの明るい未来を夢見る彼らに共感を覚え、日本人である私たちも共闘しようという結論が出た。
グループの名は「アザディ(自由)」
私たちは、多くの日本人にイランの状況を知ってもらうところから始めようということになり、ミニコミ誌を発行することに決めた。
途中から、ペルシャ語翻訳ができる学生が加わり会の活動は少しずつ軌道に乗り始めた。
強引に意見を貫こうとするイラン人は徐々に減り、最終的には大変こじんまりとした会になった。アザディは各地で行われている「外国人問題を考える集会」に参加し、
少しずつ活動を広げていった。
私もスピーカーとして講演をしたり、執筆をしたりして忙しい日々を送ることになった。
思想問題などを扱った書店などにもミニコミ誌を置いていただき、わずかではあったが
売り上げもあった。
どのくらいの人の心に響いたかは分からないけれども、イラン人の抱えている問題を扱った書籍は今ほどは無かったので、私たちのグループからの生の情報発信は決して無駄では無かっただろうと思う。
ところが、アザディはこともあろうか私の結婚を機に空中分解することとなった。
というのは、イランに住んでいた(現在の夫)との結婚手続きをするため私が2週間ほど
日本を離れることになったのだが、いざイランに行ってみたら結婚手続きは2週間どころか1年近くかかることになってしまったからだ。
そして、何よりもの原因は夫からの猛烈な反対だった。
「君は殺されたいのか?」
夫は私の活動に激昂した。
「無事に結婚をしたいのならば、今まで一切の思想を捨てて、目立たぬよう生活するしかないんだ。そんなグループ、やめてしまえ!」
夫とは知り合って1ヶ月少々で、彼が強制退去という形で別れざるをえなかったため、私たちはお互いのことをあまり知らなかった。
ただ、日本にいたときの彼のことを思うとき政府反対派であったはずだし、多くのイラン人の生活相談に乗るリーダー格の彼は、日本人の人権擁護グループと共に通訳のボランティアをしたりもしていた。
「弱者を守る正義感の強い男」だと思っていた夫が、私がやっていることに反対するなんて…。
「いいかい、日本の常識は捨てるんだ。ここはイランだ。イラン人と結婚するということは君もイランの国籍を有するイラン人になるということであり、ココの法律の中で生きていくことになるんだ。政府に反対する活動をするなんてもってのほかだ。君の身に何が起こったとしても日本政府は何の援助もできない。イラン人の女性をイラン政府が処罰をして何が悪い、という論理なんだよ。もっと、自分の行動に慎重になってくれ」
こうして私は、籠の中の鳥のような生活を始めることになるのである。
まさしく「アザディ(自由)の無い生活」だった。
私はかつての仲間との連絡を取ることも禁じられ、この15年を過ごしてきた。
「遅れてすみません」と言って、私は席をひとつ空けてもらった。
初めて会う人ばかりで、知り合いはわずかだった。
「今ね、ドイツで暗殺されたイラン人ジャーナリストの件をめぐって、彼らは意見を戦わせているところらしいんです」と年配の日本人男性松崎氏が説明してくれる。
私は(なんだか喧嘩しているみたい。どうして冷静に話し合えないのかしら)と思いながら、その様子を眺めていた。
今回の暗殺事件をめぐり、海外では抗議活動が活発となってきており「在日イラン人も連帯するべき」という声が高まりこの会合は持たれたのであるが、「一人一党」状態で具体的にどのように支援活動をしていくか、などの方向性が定まらないでいた。
私はそれまで全く政治活動などに参加したことはなく、なんだか場違いなところに自分がいる気がしたが、友人のアリ氏に誘われ興味本位で顔を出したのだった。
3時間近く話し合いは持たれたが、イラン人というのは譲歩するということを知らないのであろうか?全く進展のないまま又、参加していた日本人も意見を挟めぬまま次週の日程だけを決め散会した。
翌週行ってみると、人数は3分の2位に減っていた。
けれども、その日の話し合いは日本語を流暢に話せるタバタバイー氏とアリ氏が中心となり、事件の発端からドイツで抗議活動の一環として篭城をしハンガーストライキをしているグループがいるという現状報告などが行われ、日本人にも十分状況が把握できた。
祖国をやむなく離れ、外国で差別を受けながら必死にイランの明るい未来を夢見る彼らに共感を覚え、日本人である私たちも共闘しようという結論が出た。
グループの名は「アザディ(自由)」
私たちは、多くの日本人にイランの状況を知ってもらうところから始めようということになり、ミニコミ誌を発行することに決めた。
途中から、ペルシャ語翻訳ができる学生が加わり会の活動は少しずつ軌道に乗り始めた。
強引に意見を貫こうとするイラン人は徐々に減り、最終的には大変こじんまりとした会になった。アザディは各地で行われている「外国人問題を考える集会」に参加し、
少しずつ活動を広げていった。
私もスピーカーとして講演をしたり、執筆をしたりして忙しい日々を送ることになった。
思想問題などを扱った書店などにもミニコミ誌を置いていただき、わずかではあったが
売り上げもあった。
どのくらいの人の心に響いたかは分からないけれども、イラン人の抱えている問題を扱った書籍は今ほどは無かったので、私たちのグループからの生の情報発信は決して無駄では無かっただろうと思う。
ところが、アザディはこともあろうか私の結婚を機に空中分解することとなった。
というのは、イランに住んでいた(現在の夫)との結婚手続きをするため私が2週間ほど
日本を離れることになったのだが、いざイランに行ってみたら結婚手続きは2週間どころか1年近くかかることになってしまったからだ。
そして、何よりもの原因は夫からの猛烈な反対だった。
「君は殺されたいのか?」
夫は私の活動に激昂した。
「無事に結婚をしたいのならば、今まで一切の思想を捨てて、目立たぬよう生活するしかないんだ。そんなグループ、やめてしまえ!」
夫とは知り合って1ヶ月少々で、彼が強制退去という形で別れざるをえなかったため、私たちはお互いのことをあまり知らなかった。
ただ、日本にいたときの彼のことを思うとき政府反対派であったはずだし、多くのイラン人の生活相談に乗るリーダー格の彼は、日本人の人権擁護グループと共に通訳のボランティアをしたりもしていた。
「弱者を守る正義感の強い男」だと思っていた夫が、私がやっていることに反対するなんて…。
「いいかい、日本の常識は捨てるんだ。ここはイランだ。イラン人と結婚するということは君もイランの国籍を有するイラン人になるということであり、ココの法律の中で生きていくことになるんだ。政府に反対する活動をするなんてもってのほかだ。君の身に何が起こったとしても日本政府は何の援助もできない。イラン人の女性をイラン政府が処罰をして何が悪い、という論理なんだよ。もっと、自分の行動に慎重になってくれ」
こうして私は、籠の中の鳥のような生活を始めることになるのである。
まさしく「アザディ(自由)の無い生活」だった。
私はかつての仲間との連絡を取ることも禁じられ、この15年を過ごしてきた。
これは メッセージ 3560 (hafez0211 さん)への返信です.