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Re: 聖書では論争中

投稿者: secular2004jp 投稿日時: 2007/04/02 17:57 投稿番号: [4277 / 4578]
http://www.mikio.wada.catholic.ne.jp/HOMO-VT.html
26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記第1章26〜28節)

  「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と神は言ったとある。ここに人間を創造する神の強い意志が表れている。27節にある「創造する」という動詞は、聖書では神を主語としてしか用いられない。したがって、人間は神の働きによって直接に造られたものと考えられている。しかし、ここでどうして「我々に」と神が複数になっているのだろうか。キリスト教古来の伝統はここに三位一体の神の示唆があると取り、天地創造を父なる神と御子なる神と聖霊の共同の御業と考えてきた。また現代では神学者 K・バルト はここに唯一だが「我と汝」の関係のある神が言われていると説く。このような考えは正しいであろうが、キリスト教固有の信仰を前提していて、はたしてそれが祭司文書の著者の考えであろうか。彼にとってはイスラエルの神なる主以外に考えられず、それは唯一の主である。他方、この複数についてはほかに色々と説明が試みられてきた。天地創造の記述に際し、モデルになったバビロニアの神話があって、その中で人間が創造されるとき、神々が創造したとあるので、その名残りではないかとか、列王記上22章19〜23節やヨブ記1〜2章などにあるように、神が天上の法廷ないし会議において、使いたちに囲まれ何か重大なことを決定するという神話的発想が受け継がれ、唯一神信仰のもとで多神教的要素は排除され、その表現法だけが受け継がれたのではないかとかである。また国王や皇帝が語るとき、「わたし」という代わりに「我々は」と言う「尊厳の複数」があるが、これが用いられているという意見もある。他方、「熟慮の複数」というのがある。一個人が自分の行った決定を表現するときに用いる複数で、雅歌1章の9、11節と、サムエル記下24章14節に認められる( 日本語の訳文では動詞の単数形か複数形は訳出されないので、ヘブライ語本文を参照 )。ほかにだれもいないのに、 Let us go! 、「我々は行こう」と言う場合にあたる。このように、わたしは創世記1章26節の「我々」を、文体論的に説明できるのではないかと思う。
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