今みつけた三省堂聖書百科全書③
投稿者: secular2004jp 投稿日時: 2006/06/16 23:15 投稿番号: [3621 / 4578]
>自分の理解は不完全であることを自覚して,常に謙虚な態度で読まなければならない。聖書が何を意味するのか,その完全な理解,最終的な理解に到達することは不可能である。奇妙に聞こえるかもしれないが,つまりこういうことである。聖書はヘブライ語とアラム語とギリシア語で書かれ,どの文や語句をとっても複数の異なった訳が可能であり,そのいずれもが正当であり,正確である。例えばキリスト教史においてきわめて重要な役割を果たしたローマ5:12をとろう。「このようなわけで,一人の人によって罪が世に入り,罪によって死が入り込んだように,死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。この「からです」はギリシア語で「eph ho-」である。簡単そうに見える。しかしJ.A.フィッツマイヤーはこの2語のギリシア語には11通りの訳の可能性があると書いている(『ローマ書註解』)。どれをとるかでこの節の意味も変わってくる。翻訳は解釈である。「テクストの意味」なるものがあって,それを探し当てるというのではない。「著者が意図した意味」さえもない。これはテクストの問題や翻訳上の問題があるからだけでなく,テクストの意味は著者が意図したものに限られるわけではないからである。著者は,特に詩人の場合は,意図したこととは別のことを書く場合がある。さらに,私たち読者が著者の意図した以上の意味を読み取ることも多い。
こうした理由をすべて考慮に入れると,私たちの前にある聖書のテクストは一つの機会を提供するだけである。それは,今ここで特殊な状況下に生きる私たちに対して,一つの言葉の持つ意味を神が開示する機会となる。私たちは解釈のいろいろな可能性の中で,絶対に違うということのできるものもある(例えば,上記eph ho−を,すべての人が罪を犯す「ためです」と訳すのは間違っている)。しかし一つ一つの言葉や文が何を意味するかを最終的,決定的に知ることはできない。
解釈の多義性
>聖書はなぜ重要なのか。即答すれば単純であるが,今日の世界の人口の約4分の3が聖書を神の言葉と信じている,という点に注目しよう。聖書は,より正確に言えば,少なくとも神の言葉の「一つ」としてこれほど多くの人々に受け入れられているのである。ユダヤ教徒やキリスト教徒(キリスト者)にとってそれは当然のことであろう。しかしイスラム教徒(ムスリム),バハイ教徒,ヒンズー教徒,シーク教徒を含む多くの人々も聖書が神から出たものであることを疑わない。確かにイスラム教徒はユダヤ教徒やキリスト教徒が神の言葉を人間の言葉によって汚してしまったと考えるが,それでもなお,聖書が元を正せば神から来たものだと信じている。
キリスト教徒よ本当にそれでよいのか?
こうした理由をすべて考慮に入れると,私たちの前にある聖書のテクストは一つの機会を提供するだけである。それは,今ここで特殊な状況下に生きる私たちに対して,一つの言葉の持つ意味を神が開示する機会となる。私たちは解釈のいろいろな可能性の中で,絶対に違うということのできるものもある(例えば,上記eph ho−を,すべての人が罪を犯す「ためです」と訳すのは間違っている)。しかし一つ一つの言葉や文が何を意味するかを最終的,決定的に知ることはできない。
解釈の多義性
>聖書はなぜ重要なのか。即答すれば単純であるが,今日の世界の人口の約4分の3が聖書を神の言葉と信じている,という点に注目しよう。聖書は,より正確に言えば,少なくとも神の言葉の「一つ」としてこれほど多くの人々に受け入れられているのである。ユダヤ教徒やキリスト教徒(キリスト者)にとってそれは当然のことであろう。しかしイスラム教徒(ムスリム),バハイ教徒,ヒンズー教徒,シーク教徒を含む多くの人々も聖書が神から出たものであることを疑わない。確かにイスラム教徒はユダヤ教徒やキリスト教徒が神の言葉を人間の言葉によって汚してしまったと考えるが,それでもなお,聖書が元を正せば神から来たものだと信じている。
キリスト教徒よ本当にそれでよいのか?
これは メッセージ 3620 (secular2004jp さん)への返信です.
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