トルコ人と日本人の羞恥心
投稿者: ecebuta 投稿日時: 2006/03/09 04:41 投稿番号: [3087 / 4578]
http://www.oikawaneko.com/diary/diary177.html
全裸を見られるのと、脱いだパンツを見られるのと、どちらが恥ずかしいと感じるだろうか。
ちなみに私は、脱いだパンツを見られる方がはるかに恥ずかしい。この場合の「脱いだパンツ」とは、もちろん「今まで履いていたもの」である。
たぶん日本人女性のほとんどは、私と同じではなかろうか。
ところが、トルコ人女性にこの質問をすると、100パーセントに近い確率で、自分の裸を見られる方がイヤだという答えが返ってくる。
「だって、脱いだパンツに中身は入ってないから」
中身とは要するに彼女自身のことである。中身が入っていないなら、それが変色したパンツであろうとパッドがボロボロになったブラジャーであろうと、ただの物体。どんなものを見られても平気だと言うのである。
「でも、それはあなたが使用したものでもあるんだよ」
「どれだけ使っていようと物は物。私自身じゃない」
重要なのは自分自身だけということか。
逆に、私がなぜパンツを見られる方が恥ずかしいかというと、その物から履いていた人間の性質や様々な場面を想像させるからである。
裸を見られた場合、それはただの現実をさらしたに過ぎない。そこに必要以上の想像力は宿らない。しかし、物は単に物でありながら、それ以上のものに発展する。
冬場にトルコ人の家に行くと、よくストーブのところに下着が干されていることがある。雪や雨のせいで外には干せないので、室内、それもよく乾く場所に干すのは合理的ではある。
しかし、時にそれがリビング(トルコではサロンと呼ぶ、お客さんが通される場所)に堂々と干されている。客が来ようと片付けることもない。しかもその下着は、若いお嫁さんのものだったりもする。
こんな下着を履いているんだと他人に思われても、きっと「中身が入っていない」から平気なのだろう。そんなものをいちいち気にしている私の方がおかしいのか。
日本で友人の家を突然訪ねたとき、
「ごめん! 部屋に洗濯物を干してあるから、5分ほど待って!」
玄関の外でしばらく待たされることがあった。
それは「洗濯物を干してある見苦しい部屋」を見られることよりも、「干してある洗濯物」自体を見られることの羞恥心からだろうと思う。
この感覚。きっとトルコ人にはまったく理解できないだろうなぁ。
私は古くなったパンツやブラジャーを捨てるときは、必ず洗濯してから中身が見えない袋に入れて、それを解けないようにガムテープでぐるぐる巻きにしてゴミ袋に入れる。
私の友人の中には、原型が何だったかわからないくらいハサミで小さくカットしてから、袋に何重にも入れて捨てるという人もいた。
理由はもちろん。人に見られたらイヤ、だからである。
で、トルコ人の女友達にどうやって下着を捨てているのかを訊いたところ、
「えっ? 普通にゴミ箱に」
という答えであった。袋に入れたりハサミで切り刻んだりすることもなく、普通に「ポイッ!」だそうだ。
「でも、あんまり使っていないものは、貧しい人にあげたりするけど」
えええーっ! 履いていたパンツを人にあげるの? 一瞬絶句してしまった。
だけど、まだ日本が貧しかった時代に。清水の舞台から飛び降りたつもりで買ったものすごーく高くて綺麗な下着を銭湯で盗られた、というような話をうちの母親がしていたことがあった。
他人が履いていたパンツを喜んでもらってくれる人なんて誰もいないほど、日本は豊かな国になったんだな、ってことか。
自分が買って使っていない下着を人にあげることはあっても、私は一度でも使用したものは絶対に捨てる。たとえ一度きりでも使った痕跡があるものは、そこに自分自身の残響みたいなものを残してしまうからである。それが他人に不必要な想像力を与えることもある。
いや、それよりも。自分が履いていたパンツを見られて、よけいなことを思われたくないのである。
そういうのって考え過ぎなのか?
全裸を見られるのと、脱いだパンツを見られるのと、どちらが恥ずかしいと感じるだろうか。
ちなみに私は、脱いだパンツを見られる方がはるかに恥ずかしい。この場合の「脱いだパンツ」とは、もちろん「今まで履いていたもの」である。
たぶん日本人女性のほとんどは、私と同じではなかろうか。
ところが、トルコ人女性にこの質問をすると、100パーセントに近い確率で、自分の裸を見られる方がイヤだという答えが返ってくる。
「だって、脱いだパンツに中身は入ってないから」
中身とは要するに彼女自身のことである。中身が入っていないなら、それが変色したパンツであろうとパッドがボロボロになったブラジャーであろうと、ただの物体。どんなものを見られても平気だと言うのである。
「でも、それはあなたが使用したものでもあるんだよ」
「どれだけ使っていようと物は物。私自身じゃない」
重要なのは自分自身だけということか。
逆に、私がなぜパンツを見られる方が恥ずかしいかというと、その物から履いていた人間の性質や様々な場面を想像させるからである。
裸を見られた場合、それはただの現実をさらしたに過ぎない。そこに必要以上の想像力は宿らない。しかし、物は単に物でありながら、それ以上のものに発展する。
冬場にトルコ人の家に行くと、よくストーブのところに下着が干されていることがある。雪や雨のせいで外には干せないので、室内、それもよく乾く場所に干すのは合理的ではある。
しかし、時にそれがリビング(トルコではサロンと呼ぶ、お客さんが通される場所)に堂々と干されている。客が来ようと片付けることもない。しかもその下着は、若いお嫁さんのものだったりもする。
こんな下着を履いているんだと他人に思われても、きっと「中身が入っていない」から平気なのだろう。そんなものをいちいち気にしている私の方がおかしいのか。
日本で友人の家を突然訪ねたとき、
「ごめん! 部屋に洗濯物を干してあるから、5分ほど待って!」
玄関の外でしばらく待たされることがあった。
それは「洗濯物を干してある見苦しい部屋」を見られることよりも、「干してある洗濯物」自体を見られることの羞恥心からだろうと思う。
この感覚。きっとトルコ人にはまったく理解できないだろうなぁ。
私は古くなったパンツやブラジャーを捨てるときは、必ず洗濯してから中身が見えない袋に入れて、それを解けないようにガムテープでぐるぐる巻きにしてゴミ袋に入れる。
私の友人の中には、原型が何だったかわからないくらいハサミで小さくカットしてから、袋に何重にも入れて捨てるという人もいた。
理由はもちろん。人に見られたらイヤ、だからである。
で、トルコ人の女友達にどうやって下着を捨てているのかを訊いたところ、
「えっ? 普通にゴミ箱に」
という答えであった。袋に入れたりハサミで切り刻んだりすることもなく、普通に「ポイッ!」だそうだ。
「でも、あんまり使っていないものは、貧しい人にあげたりするけど」
えええーっ! 履いていたパンツを人にあげるの? 一瞬絶句してしまった。
だけど、まだ日本が貧しかった時代に。清水の舞台から飛び降りたつもりで買ったものすごーく高くて綺麗な下着を銭湯で盗られた、というような話をうちの母親がしていたことがあった。
他人が履いていたパンツを喜んでもらってくれる人なんて誰もいないほど、日本は豊かな国になったんだな、ってことか。
自分が買って使っていない下着を人にあげることはあっても、私は一度でも使用したものは絶対に捨てる。たとえ一度きりでも使った痕跡があるものは、そこに自分自身の残響みたいなものを残してしまうからである。それが他人に不必要な想像力を与えることもある。
いや、それよりも。自分が履いていたパンツを見られて、よけいなことを思われたくないのである。
そういうのって考え過ぎなのか?
これは メッセージ 3086 (aucuba_japonica さん)への返信です.
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