イスラエルの建国時の残虐性
投稿者: sinobu_10 投稿日時: 2003/12/06 21:03 投稿番号: [1696 / 2453]
1947年、国連の保護の下にパレスチナ分割が行われた。そして1948年5月、イスラエル
国家の一方的な独立宣言が出されるに及んで、此等のパレスチナ人達の運命は封印された。パレス
チナのシオニスト達が、指導権を握った。彼等は特殊的にはアメリカの、一般的には世界世論の支
援を受けて、自分達のパレスチナ支配を容赦無く拡大して行った。こうした行為の全く不公正さは、
当時のユダヤ人の人工比(総人口の33%)からも、土地の所有比(全国土の7%)からも、自ら
明らかである。之は記録の問題であり、この国連の統計数字が論議の対象になった事は一度もない。
今日のイスラエルは、この数字を誰もわざわざ省みはしないと云う事実の上に成立っているのであ
り、之がシオニストに数多くの神話を作上げる機会を与えた。その神話は、統計数字が暴露された
時ですら、依然として有効なのである。
そうしたイスラエル人達の神話の1つが、パレスチナ人達は自分達の意志で家と土地を捨てて逃
亡したのであり、彼等は近隣アラブ諸国で兵を募り、アラブ凱施軍の旗の下に帰還するつもりだっ
たのだ、という物だ。しかし、パレスチナ難民問題の責任は、ハッキリとシオニスト達の軍事力の
所為で有る。特に、ベギンに率いられたイルグン・ツヴァイ・レウミ、即ち「自由の戦士達」の所
為で有る。この集団はスターン団と並ぶ代表的なユダヤ・テロリスト組織であった。イルグン・ツ
ヴァイ・レウミは数多くの暴力・テロ活動を行った。
「ダヴィデ王」ホテル事件では、95名の英国人とアラブ人が殺された。ナタニヤ事件では二人
の英国人軍曹が私的制裁(リンチ)に逢い、首を吊された。しかし、此等より遥かに悪質だったの
が、デイア・ヤシイン村事件である。1948年4月9日、デイア・ヤシインの小さい村が襲われ、
254名の婦女子と老人が殺され、死体は井戸に投込まれた。この村はエルサレムの西の岩だらけ
の岬に位置し、それまで、エルサレム近郊の争いや暴動に巻込まれない様に努めていた。デイア・
ヤシインはユダヤ人の攻撃を挑発する様な事は何もしなかったし、周りのユダヤ人達とは一種の協
定を結んで平和に暮していた。村民達は時にユダヤ機関にも協力しており、ユダヤ人の新聞に拠れ
ば、村民達は村からアラブ人の戦士を追出した事も有ったのだ。イルグンとスターン団が合同でこ
の村を襲った日は、イスラムの安息日に当っていた。
攻撃に対するデイア・ヤシインの男達の最初の抵抗が止むと、住民の全てが広場に集められた。
そして壁に向って並ばされ、射殺された。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの『おお!エ
ルサレム』に拠れば、この村の有力者の娘は「一人の男が、9ヵ月の身重だった私の姉の首に弾を
打込みました。それから、その男は肉切りナイフで姉の腹を切裂きました」と証言した。
生存者達の話に依ると、此等の二つのテロリスト集団の女性団員達も、男達に劣らず野蛮な仕打
を行った。殺し屋達は人を殺し、物を略奪し、最後に女達を強姦した。
英国当局がこの事件の調査を拒否した時、エルサレムのアラブ人達は国際赤十字を説得して事実
を調べさせた。スイス赤十字代表、ジャック・ドレニエは最初の現地調査団を率いて現場に赴き、
150の死体が水溜に放り込まれ、他の4、50体がその側にあるのを認めた。総計254人が殺
され、その内145名が女性、更にその中の35名が身重であった。
ドーレニエはその日誌の中で、彼が到着した時、テロリスト達は彼等の仕事を未だ完了してい無
かったと指摘している。その夜、彼が村に入った時の様子は次のように描かれた。
最初に私は、人々が至る所で走回り、家に押入ったり出たりする
のを見た。彼等はステン銃やライフル、ピストル、長い飾りナイフ
等を身に付けていた。彼等は半分、気が狂っている様に見えた。私
は一人の美しい娘が、未だ血の滴っている短剣を手にぶら下げてい
るのを見た。私は叫び声を聞いた。イルグンの独逸人団員は説明し
た。「我々は未だ奴等を掃討中だ」。私が考え得た事を云えば、こ
れは私が嘗てアテネで見たナチス親衛隊(SS)とそっくりだ、と
云う事だった。
更にドーレニエは恐怖の思いで記している。「私はその若い女が、小屋の入口の階段に恐怖のあ
まり身を竦ませている一人の老人と女性を刺殺すのを見た」。
国家の一方的な独立宣言が出されるに及んで、此等のパレスチナ人達の運命は封印された。パレス
チナのシオニスト達が、指導権を握った。彼等は特殊的にはアメリカの、一般的には世界世論の支
援を受けて、自分達のパレスチナ支配を容赦無く拡大して行った。こうした行為の全く不公正さは、
当時のユダヤ人の人工比(総人口の33%)からも、土地の所有比(全国土の7%)からも、自ら
明らかである。之は記録の問題であり、この国連の統計数字が論議の対象になった事は一度もない。
今日のイスラエルは、この数字を誰もわざわざ省みはしないと云う事実の上に成立っているのであ
り、之がシオニストに数多くの神話を作上げる機会を与えた。その神話は、統計数字が暴露された
時ですら、依然として有効なのである。
そうしたイスラエル人達の神話の1つが、パレスチナ人達は自分達の意志で家と土地を捨てて逃
亡したのであり、彼等は近隣アラブ諸国で兵を募り、アラブ凱施軍の旗の下に帰還するつもりだっ
たのだ、という物だ。しかし、パレスチナ難民問題の責任は、ハッキリとシオニスト達の軍事力の
所為で有る。特に、ベギンに率いられたイルグン・ツヴァイ・レウミ、即ち「自由の戦士達」の所
為で有る。この集団はスターン団と並ぶ代表的なユダヤ・テロリスト組織であった。イルグン・ツ
ヴァイ・レウミは数多くの暴力・テロ活動を行った。
「ダヴィデ王」ホテル事件では、95名の英国人とアラブ人が殺された。ナタニヤ事件では二人
の英国人軍曹が私的制裁(リンチ)に逢い、首を吊された。しかし、此等より遥かに悪質だったの
が、デイア・ヤシイン村事件である。1948年4月9日、デイア・ヤシインの小さい村が襲われ、
254名の婦女子と老人が殺され、死体は井戸に投込まれた。この村はエルサレムの西の岩だらけ
の岬に位置し、それまで、エルサレム近郊の争いや暴動に巻込まれない様に努めていた。デイア・
ヤシインはユダヤ人の攻撃を挑発する様な事は何もしなかったし、周りのユダヤ人達とは一種の協
定を結んで平和に暮していた。村民達は時にユダヤ機関にも協力しており、ユダヤ人の新聞に拠れ
ば、村民達は村からアラブ人の戦士を追出した事も有ったのだ。イルグンとスターン団が合同でこ
の村を襲った日は、イスラムの安息日に当っていた。
攻撃に対するデイア・ヤシインの男達の最初の抵抗が止むと、住民の全てが広場に集められた。
そして壁に向って並ばされ、射殺された。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの『おお!エ
ルサレム』に拠れば、この村の有力者の娘は「一人の男が、9ヵ月の身重だった私の姉の首に弾を
打込みました。それから、その男は肉切りナイフで姉の腹を切裂きました」と証言した。
生存者達の話に依ると、此等の二つのテロリスト集団の女性団員達も、男達に劣らず野蛮な仕打
を行った。殺し屋達は人を殺し、物を略奪し、最後に女達を強姦した。
英国当局がこの事件の調査を拒否した時、エルサレムのアラブ人達は国際赤十字を説得して事実
を調べさせた。スイス赤十字代表、ジャック・ドレニエは最初の現地調査団を率いて現場に赴き、
150の死体が水溜に放り込まれ、他の4、50体がその側にあるのを認めた。総計254人が殺
され、その内145名が女性、更にその中の35名が身重であった。
ドーレニエはその日誌の中で、彼が到着した時、テロリスト達は彼等の仕事を未だ完了してい無
かったと指摘している。その夜、彼が村に入った時の様子は次のように描かれた。
最初に私は、人々が至る所で走回り、家に押入ったり出たりする
のを見た。彼等はステン銃やライフル、ピストル、長い飾りナイフ
等を身に付けていた。彼等は半分、気が狂っている様に見えた。私
は一人の美しい娘が、未だ血の滴っている短剣を手にぶら下げてい
るのを見た。私は叫び声を聞いた。イルグンの独逸人団員は説明し
た。「我々は未だ奴等を掃討中だ」。私が考え得た事を云えば、こ
れは私が嘗てアテネで見たナチス親衛隊(SS)とそっくりだ、と
云う事だった。
更にドーレニエは恐怖の思いで記している。「私はその若い女が、小屋の入口の階段に恐怖のあ
まり身を竦ませている一人の老人と女性を刺殺すのを見た」。
これは メッセージ 1 (enrique_1987 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834682/4hda5a4la5a4a59a5ia5a8a5ka1aa_1/1696.html