2003年
投稿者: marchingpeople 投稿日時: 2003/01/16 17:49 投稿番号: [1316 / 2453]
こんにちは、f3nasaさん
> 120 名以上の犠牲を出してその結果、全体としては何を得たのか。
> ひょっとすると自爆テロ犯人自身は殉教の自己満足に浸れているのかもしれませんが、
> それを除外すると、今月末に総選挙を控えているイスラエルの右派政権以外に
> 利益を得た勢力が有るとは思えません。変革を余儀無くされている集団が頑迷に
> 自己のポリシーを貫こうとすると、こうまで歪みを生じるものなのかなとも考えています。
同感です、相手とはかれこれ100年の付き合いにはなるのですから。
また私はイスラエルの側にもそれを感じるのです。
パレスチナへの入植も最初期にはそれほど衝突がなかったようです。ただシオニスト機構という組織が実力を持った頃、ようするにお坊ちゃんシオニストのヘルツルからプラクティカル・シオニズムのワイツマンになった頃から変わったようです。
しかし、これも遠大な目標を掲げた組織にありがちな急進派の分派、台頭に過ぎません。
その結果による極端な政策も単に変更する機会が無かったからでしょう。ヒトラーの登場がそれを許しませんでしたし、39年に方向転換しようにも、移民記録を見れば明らかなように英国の移民制限がやはりそれを許しませんでした。
http://www.mideastweb.org/palpop.htm
Recorded immigration and emigration, Palestine, 1930-1939
建国時の過激な行動も、9・11の衝撃を拭いきれない今の米国を見れば、ジェノサイドが彼らに与えた衝撃、強迫観念が10年、20年で消えるものとは考えられません。そもそもがポグロムによって国を欲した人たちですから。
仮に悪意のあるものだとしても、第一次大戦以降、持たざる者は日本でも、イタリアでも、ドイツでも必死に求めた時代ですから、ユダヤ人だけが求めてはいけないとする基準は無いでしょう。
さらに言えば、国際都市となる予定だったエルサレムにはそれぞれ10万人のユダヤ人、アラブ人が住んでいました。だからエルサレム奪還が必ずしも領土だけを目的としたとは言えないと思います(ちなみにアラブ国家は73万のアラブ人、1万のユダヤ人)。
国連の研究も注意深く読めばその数字と表現が大きめのものが用いられており、当時の様子を正確に記述したものなのかは不明です(逆に密度を濃くするとそうせざるを得なかったのかもしれない)。
また、イスラム教とは商業の宗教と呼ばれるように、農民を基準に当時を判断していいのかという疑問もあります。ただし・・・
》 1908年から1921年までの間に、土地の回復は、技術的、法律的に見て、実験の段階に入った。すなわち、ユダ
》 ヤ民族郷土が認められたことにより、国の植民地建設はケレン・カイェメット・レイスラエルおよび1921年からは、
》 ケレン・ハイェソッドの後押しの下に、驚異的発展を見せた。1922年から1948年までの間、植民地建設はその
》 強化と発展の段階を踏みつつ、同時に獲得された成果を、それを脅かす危険から防止するための軍事的警戒の段階を経
》 験した。
(イスラエル アンドレ・シュラキ著)
やはり無視出来るものではなかったと思います。
占領地の必要なときもありましたが、長く維持するほど当初の目的を見失い、そこからの反乱を抑えるためどうしても抵抗力をそぐ政策、経済を疲弊させる政策をとらざるを得なくなり、それ自体が反抗を生んでしまう悪循環に陥っています。
90年以降になってようやく、超大国間の圧力から解放されましたが、未だ両者にかかる力は強大です。しかしそれでも両者の改革への意志無くしては、和平の達成はまだまだ遠いと思います。
これで資料も言いたいことも無くなりました(笑)。
病的な発言数も、その内容が全て受け入れられるとは思いませんが、イスラエルに渡航する人たちが読んでくれて、彼らの言葉でイスラエル人に伝わり、もしかしたら、もしかしたら現地で飛び交う銃弾が1発ぐらいは減れかも・・・、その可能性があるのならこの程度のことはするべきだと感じたからです。
随分身勝手なのですが、つくづく平和や豊かさが有り難い、日本に生まれて良かったと個人的に感じた出来事がありまして、私は安全第一なのです(^^;、もちろん他の方の考えを否定するつもりは決してありませんm(_ _)m。
> 120 名以上の犠牲を出してその結果、全体としては何を得たのか。
> ひょっとすると自爆テロ犯人自身は殉教の自己満足に浸れているのかもしれませんが、
> それを除外すると、今月末に総選挙を控えているイスラエルの右派政権以外に
> 利益を得た勢力が有るとは思えません。変革を余儀無くされている集団が頑迷に
> 自己のポリシーを貫こうとすると、こうまで歪みを生じるものなのかなとも考えています。
同感です、相手とはかれこれ100年の付き合いにはなるのですから。
また私はイスラエルの側にもそれを感じるのです。
パレスチナへの入植も最初期にはそれほど衝突がなかったようです。ただシオニスト機構という組織が実力を持った頃、ようするにお坊ちゃんシオニストのヘルツルからプラクティカル・シオニズムのワイツマンになった頃から変わったようです。
しかし、これも遠大な目標を掲げた組織にありがちな急進派の分派、台頭に過ぎません。
その結果による極端な政策も単に変更する機会が無かったからでしょう。ヒトラーの登場がそれを許しませんでしたし、39年に方向転換しようにも、移民記録を見れば明らかなように英国の移民制限がやはりそれを許しませんでした。
http://www.mideastweb.org/palpop.htm
Recorded immigration and emigration, Palestine, 1930-1939
建国時の過激な行動も、9・11の衝撃を拭いきれない今の米国を見れば、ジェノサイドが彼らに与えた衝撃、強迫観念が10年、20年で消えるものとは考えられません。そもそもがポグロムによって国を欲した人たちですから。
仮に悪意のあるものだとしても、第一次大戦以降、持たざる者は日本でも、イタリアでも、ドイツでも必死に求めた時代ですから、ユダヤ人だけが求めてはいけないとする基準は無いでしょう。
さらに言えば、国際都市となる予定だったエルサレムにはそれぞれ10万人のユダヤ人、アラブ人が住んでいました。だからエルサレム奪還が必ずしも領土だけを目的としたとは言えないと思います(ちなみにアラブ国家は73万のアラブ人、1万のユダヤ人)。
国連の研究も注意深く読めばその数字と表現が大きめのものが用いられており、当時の様子を正確に記述したものなのかは不明です(逆に密度を濃くするとそうせざるを得なかったのかもしれない)。
また、イスラム教とは商業の宗教と呼ばれるように、農民を基準に当時を判断していいのかという疑問もあります。ただし・・・
》 1908年から1921年までの間に、土地の回復は、技術的、法律的に見て、実験の段階に入った。すなわち、ユダ
》 ヤ民族郷土が認められたことにより、国の植民地建設はケレン・カイェメット・レイスラエルおよび1921年からは、
》 ケレン・ハイェソッドの後押しの下に、驚異的発展を見せた。1922年から1948年までの間、植民地建設はその
》 強化と発展の段階を踏みつつ、同時に獲得された成果を、それを脅かす危険から防止するための軍事的警戒の段階を経
》 験した。
(イスラエル アンドレ・シュラキ著)
やはり無視出来るものではなかったと思います。
占領地の必要なときもありましたが、長く維持するほど当初の目的を見失い、そこからの反乱を抑えるためどうしても抵抗力をそぐ政策、経済を疲弊させる政策をとらざるを得なくなり、それ自体が反抗を生んでしまう悪循環に陥っています。
90年以降になってようやく、超大国間の圧力から解放されましたが、未だ両者にかかる力は強大です。しかしそれでも両者の改革への意志無くしては、和平の達成はまだまだ遠いと思います。
これで資料も言いたいことも無くなりました(笑)。
病的な発言数も、その内容が全て受け入れられるとは思いませんが、イスラエルに渡航する人たちが読んでくれて、彼らの言葉でイスラエル人に伝わり、もしかしたら、もしかしたら現地で飛び交う銃弾が1発ぐらいは減れかも・・・、その可能性があるのならこの程度のことはするべきだと感じたからです。
随分身勝手なのですが、つくづく平和や豊かさが有り難い、日本に生まれて良かったと個人的に感じた出来事がありまして、私は安全第一なのです(^^;、もちろん他の方の考えを否定するつもりは決してありませんm(_ _)m。
これは メッセージ 1247 (f3nasa さん)への返信です.
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