tome君へ
投稿者: ts657738 投稿日時: 2004/08/28 23:18 投稿番号: [3811 / 62227]
君に面と向かって禁断の2文字を使わなかったのは、まあ、「ほっといてもいいや」という気楽さのなせるワザ。私が”具体的な個人”相手に対して「馬鹿」と書いたのはnao君が恐らく二人目だろう。ニワトリ1号君にもこの2文字は使っていない。ボロクソ書いてはいるけれどね。
曲がりなりにも、捕鯨ないし自然利用という面での話なら色々あってもいいのかなという気がしている。
入り口で脱落している人間がいたのは事実だから、君より”下”が存在するということが現実なんだと私が認めよう。
更に、凄い事が起きているんだが、ニワトリ1号というのは実は持論を展開した事が無い。「違う!違う!」しか書いた事が無くて、自分は資源利用に対してこう考えるという主張をしたことが無い。これニワトリ1号の特徴。日本語が根本的に駄目なんだろうな、奴は。いやtome君お見事。君にはニワトリ1号が出来なかったことを達成できてしまった。素晴らしいではないか。君には下が最低でもまだ二人もいる。自慢できるじゃないか。
で、散々持ち上げておいてナンだけれど。
この持論は零点だろう。
50年後位に人間が増えてしまっていることが問題なので、食料問題はそれまでに何とかしないといけない。人が減れば食料問題が起きないというのは前提が間違いで、これでは現実への解決策にはならない。畜産や養殖は天然資源を畜肉に変換する仕組みでしかないのが実態だから、可能な範囲で両方利用しましょうというのが正解だろう。
また、人間同士の殺し合いなんて願い下げだが、それが動物同士に飛躍して人間が動物を殺さないという事に飛ぶのはどうしたものか。
家畜を食べても残酷ではないという発想のオリジナルは欧米のキリスト教的な思想にある「牛や豚は”神様が”人間に作ってくれたから食べてもいい。」という奴だろう。神様が神様に似せて人間を作り、人間は地上に満ちよと祝福して地上に家畜を下さった。だから神と契約したキリスト教徒たる人間が家畜を殺して食うのは当然だというロジック。
これが日本では宗教観が薄いから、家畜は人間が作ったからという理屈に変わってしまった。仏教が伝来した以降は牛なんか食えなくなったのに、明治になったらころりと変わった。
人間が食う動物を野生と畜産では、単純に分けられない。
イスラム教やヒンズー教あるいはユダヤ教。食い物に使う動物の概念がバラバラになってしまって、野生と畜産を基準にして世界同一歩調を取るという訳にはいかない。
これを無理に合わせようとするなら、それこそ宗教戦争になってしまう。何しろ神様の教えを勝手に変えて相手に合わせろというのだから、これは誰も納得しない。
人間と他の動物に同じ権利があるんだとすると、神様は鯨や蜂の子やイナゴ、ナマコを人間と平等の権利を持っておつくりになったと聖書やコーランを書き換えるのだろうか。こうした発想がそも無理なことだ。
養殖の鯛や海老の生き造りを外国人に食わせると、場合によっては残酷だと言われるだろう。彼らには養殖だろうが、天然ものだろうが彼らにとって慣れていなければ残酷な習慣でしかないだろう。日本で肉屋の軒先に皮を剥いだウサギが吊るされているとその肉屋は潰れるだろうが、欧州ではありふれた光景かもしれない。
こうした問題を捕鯨問題に結びつけるのは無理なんだろうね。
結局、tome説は独自のtome説であるけれど、そこまでの話であってこれが国際的に今後標準になるというプロセスを歩む事は無理。そういうこと。
曲がりなりにも、捕鯨ないし自然利用という面での話なら色々あってもいいのかなという気がしている。
入り口で脱落している人間がいたのは事実だから、君より”下”が存在するということが現実なんだと私が認めよう。
更に、凄い事が起きているんだが、ニワトリ1号というのは実は持論を展開した事が無い。「違う!違う!」しか書いた事が無くて、自分は資源利用に対してこう考えるという主張をしたことが無い。これニワトリ1号の特徴。日本語が根本的に駄目なんだろうな、奴は。いやtome君お見事。君にはニワトリ1号が出来なかったことを達成できてしまった。素晴らしいではないか。君には下が最低でもまだ二人もいる。自慢できるじゃないか。
で、散々持ち上げておいてナンだけれど。
この持論は零点だろう。
50年後位に人間が増えてしまっていることが問題なので、食料問題はそれまでに何とかしないといけない。人が減れば食料問題が起きないというのは前提が間違いで、これでは現実への解決策にはならない。畜産や養殖は天然資源を畜肉に変換する仕組みでしかないのが実態だから、可能な範囲で両方利用しましょうというのが正解だろう。
また、人間同士の殺し合いなんて願い下げだが、それが動物同士に飛躍して人間が動物を殺さないという事に飛ぶのはどうしたものか。
家畜を食べても残酷ではないという発想のオリジナルは欧米のキリスト教的な思想にある「牛や豚は”神様が”人間に作ってくれたから食べてもいい。」という奴だろう。神様が神様に似せて人間を作り、人間は地上に満ちよと祝福して地上に家畜を下さった。だから神と契約したキリスト教徒たる人間が家畜を殺して食うのは当然だというロジック。
これが日本では宗教観が薄いから、家畜は人間が作ったからという理屈に変わってしまった。仏教が伝来した以降は牛なんか食えなくなったのに、明治になったらころりと変わった。
人間が食う動物を野生と畜産では、単純に分けられない。
イスラム教やヒンズー教あるいはユダヤ教。食い物に使う動物の概念がバラバラになってしまって、野生と畜産を基準にして世界同一歩調を取るという訳にはいかない。
これを無理に合わせようとするなら、それこそ宗教戦争になってしまう。何しろ神様の教えを勝手に変えて相手に合わせろというのだから、これは誰も納得しない。
人間と他の動物に同じ権利があるんだとすると、神様は鯨や蜂の子やイナゴ、ナマコを人間と平等の権利を持っておつくりになったと聖書やコーランを書き換えるのだろうか。こうした発想がそも無理なことだ。
養殖の鯛や海老の生き造りを外国人に食わせると、場合によっては残酷だと言われるだろう。彼らには養殖だろうが、天然ものだろうが彼らにとって慣れていなければ残酷な習慣でしかないだろう。日本で肉屋の軒先に皮を剥いだウサギが吊るされているとその肉屋は潰れるだろうが、欧州ではありふれた光景かもしれない。
こうした問題を捕鯨問題に結びつけるのは無理なんだろうね。
結局、tome説は独自のtome説であるけれど、そこまでの話であってこれが国際的に今後標準になるというプロセスを歩む事は無理。そういうこと。
これは メッセージ 3780 (tome_koiy さん)への返信です.
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