Re: 大日本水産会
投稿者: aplzsia 投稿日時: 2009/09/07 18:16 投稿番号: [37790 / 62227]
>たとえば、IWCでは全部査読じゃないと論文と認めないなんて聞いたことも無いし、
>ワークショップの成果が査読論文のみによるなどという事実も無い。
物理学会でも超常現象とか、「現段階の最良の知見」とは認められない
観察結果や説明の仕方を発表する部会はありますよ。
ただし査読論文として学会誌には掲載されないということです。
かつてはそういう扱いだった「エントロピー増大の法則」とか「複雑系」
というのは現在ではスタンダードになってますね(エントロピー法則
自体は19世紀からありましたけど、数学的扱いが難しすぎて合理的な
応用ができなかったということですね)。
個人の研究者が「現段階の最良の知見」では認められないような現象や
分野を扱うのは自由だし、大学などである程度そういう部分にも研究の
余地を保持しておくのは重要なことだけれど、一国の政府が政策決定の
根拠にしていいもんじゃないですね。
政府から助成金を得ている大日本水産会や日本鯨類研究所、海外漁業協力財団
(OFCF)、国際協力事業団(JICA)が大挙して西アフリカの水産閣僚会議に
押し掛けて主張するなんていうのは問題外です。
>土俵に上がらないなら、汚いなんて認識すら本来、出来ないはずだが。
>どうやら”現実”は違ったわけだよね。
「現段階における最良の知見」というのが、ある一定水準以上の共通認識、
共通手続きのなかで、複数の対立している見解を含んでいるというのは
よくあることですね。同じ土俵で複数の立場があり得るということです。
土俵にあがっているものと、土俵に上がっていないものの立場の違い
というのとは別次元です。
景気浮揚には財政政策による内需拡大が適切か、金融政策による外需主導の
経路が適切か、なんてのはある程度の水準以上の経済学者たちの共通した
システム認識の土俵場でも異論が出るところです。こういうことについては
査読論文掲載誌紙上で論争が起ります。
政府は何らかの政策判断でその両論のどちらか、あるいは折衷案を採用すると、
たとえあとで間違ったとわかっても、少なくとも有権者に対して最善の努力を
したということになるのです。
査読論文誌に載らないような「思いつき」を根拠に政策決定すると、近代国家に
期待される合理性をないがしろにしたということになります。
こういうことは、一部業界の利権や特定国民層のイデオロギーが強く反映すると
起りやすいですね。
>汚い?。
>査読が無いと汚いなら、査読なしを平気で受け入れているIWCのワークショップも、
>科学委員会もそうかな?。
1982年にボストンのニューイングランド水族館で開かれたセミクジラに関する
公開シンポジウムとそれに続く専門家ワークショップは、「査読論文」
という完成された姿に至る前のいろいろな科学者の意見を自由に発表する
場でした。これをそのまままとめて公刊したのが1986年のIWC報告です。
こういうのをプロシーディングスと言います。読者、あるいは各国政府は
その限界をわきまえた上で、いろいろな判断をすればよいのです。
この報告集の中でも完成度の高い報告、たとえばピーター・ベストの
ヤンキー捕鯨統計の分析と年次一覧表化は、ワークショップでの成果を
取り入れて若干の訂正をした上で、査読論文誌に掲載されています。
更にリーヴス、クラッパム他の査読論文を経て、現在最もコンパクトに
まとめられている査読論文レベルの「最良の知見」がエンサイクロペディア
オブ・マリン・ママルズなど、忙しい人でもすぐに読める形で世界中
大きな図書館ならどこにでもあります。
より詳しく知りたい人は、査読論文になる以前の報告まで読むと、さらに
いろいろなことがわかるというふうになってます。たとえば査読論文では
省かれた150年前のハワイの新聞記事とか。
査読論文レベルでの見解の相違と、「査読論文vs.非査読論文」の間の
見解の相違を、同一レベルの見解の相違であるかのように装うのが
「汚い」ということなのです。
特にこういうことが、イデオロギー過剰の政府によって行われると、
汚さが際立つのです。
逆に、非常にイデオロギー性の強い政府でも、政策決定は査読論文レベル
の「見解の幅」の枠中でやるというふうに自制していれば、ひどい間違いを
犯す蓋然性が低くなるという保障になります。知的安全保障ね。
>ワークショップの成果が査読論文のみによるなどという事実も無い。
物理学会でも超常現象とか、「現段階の最良の知見」とは認められない
観察結果や説明の仕方を発表する部会はありますよ。
ただし査読論文として学会誌には掲載されないということです。
かつてはそういう扱いだった「エントロピー増大の法則」とか「複雑系」
というのは現在ではスタンダードになってますね(エントロピー法則
自体は19世紀からありましたけど、数学的扱いが難しすぎて合理的な
応用ができなかったということですね)。
個人の研究者が「現段階の最良の知見」では認められないような現象や
分野を扱うのは自由だし、大学などである程度そういう部分にも研究の
余地を保持しておくのは重要なことだけれど、一国の政府が政策決定の
根拠にしていいもんじゃないですね。
政府から助成金を得ている大日本水産会や日本鯨類研究所、海外漁業協力財団
(OFCF)、国際協力事業団(JICA)が大挙して西アフリカの水産閣僚会議に
押し掛けて主張するなんていうのは問題外です。
>土俵に上がらないなら、汚いなんて認識すら本来、出来ないはずだが。
>どうやら”現実”は違ったわけだよね。
「現段階における最良の知見」というのが、ある一定水準以上の共通認識、
共通手続きのなかで、複数の対立している見解を含んでいるというのは
よくあることですね。同じ土俵で複数の立場があり得るということです。
土俵にあがっているものと、土俵に上がっていないものの立場の違い
というのとは別次元です。
景気浮揚には財政政策による内需拡大が適切か、金融政策による外需主導の
経路が適切か、なんてのはある程度の水準以上の経済学者たちの共通した
システム認識の土俵場でも異論が出るところです。こういうことについては
査読論文掲載誌紙上で論争が起ります。
政府は何らかの政策判断でその両論のどちらか、あるいは折衷案を採用すると、
たとえあとで間違ったとわかっても、少なくとも有権者に対して最善の努力を
したということになるのです。
査読論文誌に載らないような「思いつき」を根拠に政策決定すると、近代国家に
期待される合理性をないがしろにしたということになります。
こういうことは、一部業界の利権や特定国民層のイデオロギーが強く反映すると
起りやすいですね。
>汚い?。
>査読が無いと汚いなら、査読なしを平気で受け入れているIWCのワークショップも、
>科学委員会もそうかな?。
1982年にボストンのニューイングランド水族館で開かれたセミクジラに関する
公開シンポジウムとそれに続く専門家ワークショップは、「査読論文」
という完成された姿に至る前のいろいろな科学者の意見を自由に発表する
場でした。これをそのまままとめて公刊したのが1986年のIWC報告です。
こういうのをプロシーディングスと言います。読者、あるいは各国政府は
その限界をわきまえた上で、いろいろな判断をすればよいのです。
この報告集の中でも完成度の高い報告、たとえばピーター・ベストの
ヤンキー捕鯨統計の分析と年次一覧表化は、ワークショップでの成果を
取り入れて若干の訂正をした上で、査読論文誌に掲載されています。
更にリーヴス、クラッパム他の査読論文を経て、現在最もコンパクトに
まとめられている査読論文レベルの「最良の知見」がエンサイクロペディア
オブ・マリン・ママルズなど、忙しい人でもすぐに読める形で世界中
大きな図書館ならどこにでもあります。
より詳しく知りたい人は、査読論文になる以前の報告まで読むと、さらに
いろいろなことがわかるというふうになってます。たとえば査読論文では
省かれた150年前のハワイの新聞記事とか。
査読論文レベルでの見解の相違と、「査読論文vs.非査読論文」の間の
見解の相違を、同一レベルの見解の相違であるかのように装うのが
「汚い」ということなのです。
特にこういうことが、イデオロギー過剰の政府によって行われると、
汚さが際立つのです。
逆に、非常にイデオロギー性の強い政府でも、政策決定は査読論文レベル
の「見解の幅」の枠中でやるというふうに自制していれば、ひどい間違いを
犯す蓋然性が低くなるという保障になります。知的安全保障ね。
これは メッセージ 37777 (nobu_ichi95 さん)への返信です.
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