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大規模の西海捕鯨

投稿者: aguatibiapy 投稿日時: 2009/08/26 15:48 投稿番号: [37508 / 62227]
日本の昔の沿岸捕鯨とヤンキー捕鯨の対比の話、横から飛び飛びに見ているのでピンボケなのですが、平戸を中心とする西海捕鯨の話は見かけない様に思います。 それとも私の見落としです。

http://ww7.tiki.ne.jp/~yosizen/seto/seto2.htm

こんな資料を見ると吃驚する様な数字が出てきます。

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生月島において島民を主体とする捕鯨業が本格的に始まるのは、享保10年(1725年)に舘浦の田中長太夫と畳屋(のちの益冨)又左衛門正勝による、12艘の鯨船からなる突組の操業からです。しかし、翌年には田中長太夫は経営を退いたため、畳屋家の単独経営となります。

  その後、享保14年(1729年)には根拠地を島の北部の御崎浦(みさきうら)に移し、さらに享保18年(1733年)には網掛突取捕鯨法を行い得る網組の編成にに移行することで経営の安定に成功します。その後、益冨組は西海漁場のなかで、当時屈指の優良漁場である壱岐への進出をはかり、元文4年(1739年)には平戸藩の仲介で、壱岐にある前目浦(芦辺町)と瀬戸浦(勝本町)の両漁場を、地元勝本の鯨組である土肥組隔年交替で使うように取り決め、壱岐で通常の2倍の規模にあたる網組(六結組)を操業させています。

  その後、五島や対馬など西海漁場の各地にも網組を出し、文政年間頃には5つの網組を経営する日本一の規模を誇る鯨組へ発展します。その前後には我が国における捕鯨図説の最高傑作と称される木版印刷による捕鯨図説『勇魚取絵詞(いさなとりえことば)』が益冨組の手によって刊行されています。
  しかし、益冨組の捕獲量は、弘化年間(1844〜47年)頃から減少し、明治7年(1874年)には、さしもの益冨組も捕鯨業を廃止するのにやむなきに至ります。小葉田淳氏によると、益冨組が操業した142年間に捕獲した鯨は21,790頭にのぼり、事業で得た収入も3,324,850両という莫大な金額にのぼったとされます。

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2万頭以上を捕ったこの益富組に先立って、17世紀には既に多数の突き組が有ったと言うことですからこの付近の累計捕鯨数は一体どれ程になるのでしょうか。   別の資料では益富組は年間平均150頭、多い年には300頭も捕ったとしています。
ここは日本海の出入り口ですからサハリン沖で餌を摂る今や絶滅に瀕しているコククジラなど相当に減らしたのでしょう。

話し合いに出てくる
>岸から見える沿岸で年間100頭獲るのと、公海捕鯨にて北太平洋全域で
>年間数百頭から1600頭以上を集中して獲るのと、どちらが密度が濃い
>でしょうかね?。

というのはセミ鯨のことでしょうから比較になりませんが、この地方の分も含まれているのでしょうね。

捕鯨にはシーズンがあるので時期によっては毎日何頭かの大型鯨を処理していた事も想像されるのであり、こうなると大きな産業です。   平戸は僻地ですから毎日消費地に向かって何トンもの生産物を積み出さねばなりませんが、これだけでも大きな販売組織が必要です。

たまさか沖合いを通りかかった鯨を捕まえ、丸ごと利用に励み、誘い合って懇ろに鯨供養を怠らなかったといった悠長なイメージだったのは、さすが疑い深い私も奴らの情報操作に引っ掛かったという事でしょうか。
誰かの言葉を借りれば(苦笑)と書くべきところです。


げんた
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