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Re: 「古式」捕鯨でも鯨は減る

投稿者: r13812 投稿日時: 2009/08/24 08:32 投稿番号: [37441 / 62227]
確かに太地においても

いくら原始的で非効率的な古式捕鯨であっても

“乱獲”ってことになってしまうようです。


“徐々に鯨は減少してきました”


和田忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照は父の捕鯨業を再興させて、元和4年(1618年)に再び尾州知多・小野崎浦より与平次という羽刺(鯨に銛を打つ働きをする人)を雇い入れて、本格的に始めました。この頃より熊野の他の地域でも捕鯨が活発に行うようになり、徐々に鯨は減少してきました。
http://www.cypress.ne.jp/taiji/2.html
和田金右衛門頼照には3人の子がおり、長男は頼興、次男は頼治、三男は頼直といいました。頼興は後に金右衛門を名乗り、弟の頼治は角右衛門、頼直は重郎右衛門(半六)を名乗りました。頼興と頼治・頼直は異母兄弟でしたが仲が良く、暇な時はいつも碁や将棋をしていました。しかし兄の金右衛門頼興は生来病弱だったため、弟の角右衛門頼治は兄が得た捕鯨の家業を補佐しました。ところが、この頃になると、太地浦では兄の金右衛門組とするものの、三組の鯨組(金右衛門頼奥・角右衛門頼治・忠兵衛頼則)となり、また他の地域でも鯨組が多く出来て競合しておりました。そのため、乱獲となり、捕鯨業は衰退しつつありました。
http://www.cypress.ne.jp/taiji/3.html
和田金右衛門頼興は病弱のために、後に弟の角右衛門頼治に家督を譲り、自らは補佐役となりました。
この頃の、寛文2年(1662年)には鯨船は塗り船となり、更に同4年(1664年)には八丁櫓の15人乗りとなって鯨船の高速性が確立され、道具類も発達して、組織も分業化されました。
太地浦周辺20ヶ村を束ねた太田組大庄屋となった角右衛門頼治は、延宝3年(1675年)に太地浦を含む七ヶ浦(太地・森浦・浦神・下里・勝浦・宇久井・三輪崎)の庄屋と、「鯨突き定め」の取り決めを行いました。これは、捕鯨を行う取り決めを行うことで、紛争を無くする目的もありましたが、鯨組が増加した反面、鯨が減少してきたことで競合が激しくなってきたという実態がありました。
http://www.cypress.ne.jp/taiji/4.html
角右衛門頼治は、ある日クモの巣にかかっ たセミの様子を見ていて、一つのアイデアが浮かびました。当時、捕鯨の対象となっていたセミクジラ・マッコウクジラ・カツオクジラ・コクジラが減少していましたが、突き取り捕鯨法では捕獲困難なザトウクジラだけが数多くありました。そこで角右衛門は麻の繊維でできた苧網(おあみ)を使い、鯨を拘束してから銛を打つという網取り捕鯨法を開発しました。延宝5年(1677年)のことでした。
この鯨網は、鯨が網にかかった時、部分部分の網を破れやすくして、網を岩に引っかけたりしても影響されず、鯨の行動を鈍くはするが、網によって鯨が身動きできずに窒息死となるようにはしませんでした。死ねば鯨は沈んでしまい、引き上げることが不可能となるからです。鯨の動きを鈍くしておいてから銛を打ち込み、鯨が弱り瀕死の状態となった時、刺し水主(さしかこ)という人が鯨の鼻にロープを付けて持双船(鯨を曳航する船)につなぎます。   
http://www.cypress.ne.jp/taiji/5.html
網取り捕鯨の技術を確立した角右衛門頼治は、他の捕鯨業者が撤退する中で、一人座頭鯨を捕獲することに成功し、天和3年(1683年)暮れより翌春までにザトウクジラ91頭、セミクジラ2頭、コクジラ3頭を捕獲して一躍「角右衛門組・太地鯨方」を世に知らしめました。この捕獲した鯨の種類を見てもわかるように、セミクジラ・コクジラはわずか数頭、イワシクジラ・マッコクジラの記録が無いのに対し、ザトウクジラは多数捕獲していて、網取り捕鯨が如何に画期的であったかがわかります。ザトウクジラを捕獲の対照としなかった突き取り捕鯨ではそれほど他のクジラが捕獲できなかったことが推測されます。
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