小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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捏造は朝鮮文化か!事実を知れ!

投稿者: ahoahochann12 投稿日時: 2003/11/30 23:03 投稿番号: [94363 / 232612]
  同じ国民を500万も餓死させる国家と戦前の日本は同じか!!!このうそつき野郎!!!

http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/index.html
この一事からもわかるように、当時の帝国大学の学生の世間的地位は非常に高く、最高学府で最高の学問を研鑽している人物として深く尊敬されていた。大正四年(一九一五)以降十年間に所得倍増を達成して、急速に発展した近代資本主義態勢に応じて、大正八年(一九一九)に高等教育の大拡充計画が策定され、それまでの東大、京大に加え仙台、福岡、札幌、京城(今のソウル)に次々と帝大が開設されたが、学生数はまだ一万人台半ばで現在の弁護士数と大差なく、世間の処遇もそれに準じたと考えればよいであろう。

  ついでまでに、帝大への予備門である旧制高校も、明治以来のナンバースクール八校の他に、所在地名を冠した二十数校が逐次増設され、また神田一橋の高等商業学校が東京商大(現在の一橋大)に、蔵前の高等工業が東京工大になり、それまで専門学校扱いだった各私大も正規の大学に昇格した。中等教育の拡充も当然並行して行われ、現在伝統校と呼ばれる各地の古い高校の前身は、多くがこの時期の創立である。

  わが家にラジオが備わったのもこのころで、電灯用のソケットから電源を引ける、充電式と呼ばれる製品が現れたのがきっかけだった。それまで駅長さんの家に在った部落唯一のラジオは蓄電池式で、時折電灯会社の出張所に持参し充電してもらう必要があった。北海道の放送は札幌のJOIK一局で、遠く離れたこの地では雑音がひどく、やっと音声が聞き取れる程度だったが、近所の子供が窓辺に集まって聞き耳をたてていた。この時代、地方の文化レベルはそんな程度だったのである。

昭和四年(一九二九)に始まった世界大恐慌は、子供の理解を越えた問題だったが、翌五年のロンドン軍縮会議で新聞に各国の軍艦の写真が載ったこと、浜口雄幸首相が暗殺された事件などはなお記憶に残っている。昭和六年(一九三一) 秋の満州事変の勃発もおぼえてはいるが、当時中国は各地方の軍閥の首領が私兵を抱え割拠していた無法社会で、出兵とか討伐騒ぎは始終あったし、これが日本の運命の大きな転回点になろうとは、子供はもちろん大人でも全く思い及ばなかった。

前述の大恐慌はウォール街での株価の暴落がきっかけだったが、アメリカが海外投資を早々に引き揚げ、万里の長城の如しと評された関税障壁を立てて自国産業の保護に走ったため、たちまち全世界に波及した。これに対抗してイギリスや他の主要国も、同様に全領土をブロック化してしまい、大正末期以来不景気だった日本経済を打ちのめした。

  私の周辺では、金三君という大柄な子のいた菓子屋が店をたたんで夜汽車で東京に去り、以後甘いものは時折訪れる行商のおばあさんから買うほかなくなった。アメリカでは三年間に個人消費が六割近くも落ちたというが、この一家も同じ傳で売上が細り、田舎まんじゅう六個が十銭などという価格では、暮らしが立たなくなったのであろう。

  翌昭和七年(一九三二)には三菱もこの地域の山林事業を打ち切り、我々一家は同じ道内の美唄炭鉱に転住した。ここでも九つ在る坑員住宅集落のうち三つが全面閉鎖され、夜は漆黒のゴーストタウンと化していた。父の顔見知りの職員も相当数が整理されて、その中のある一家が地元の神社の夜祭りに、二年前に飛来したドイツの飛行船に因んで名付けられた「ツェペリン焼き」、今でいうたい焼きの露店売りをしている姿に、胸を衝かれる思いがしたことがあった。

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