確かに一時代の終わり①
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2003/11/01 23:37 投稿番号: [91352 / 232612]
北朝鮮外交を良くも悪くも体現した党書記。
北朝鮮のイメージを作り出した人物。
日本の政党外交の失敗相手=カウンターパート
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金容淳書記のこと
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歓迎会で朝鮮労働党の金容淳書記(中央)と会食する村山富市団長(左)と野中広務氏=1999年12月1日、平壌市の玉流館で
小菅 幸一(論説委員)
朝鮮労働党の金容淳(キム・ヨンスン)書記が69歳で死亡したという朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の報道を聞いて、すぐに92年3月31日の光景が思い浮かんだ。
平壌郊外の、現地では「招待所」と言っている瀟洒な迎賓館である。取材団の一員として、筆者は当時の金日成(キム・イルソン)主席との会見の末席にいた。
「わが国は今や『水の持ち主』になった。大同江の上流部を合わせると80億トンの貯水量となる。農業用水として十分だ」
話は水不足対策の取り組みに及び、主席は野太くしゃがれた声で冗舌にしゃべり続けた。
「このほかにも、全国に大小合わせて、貯水池を、えー……」と、主席が少し言いよどんだ瞬間、
「1700でありますっ」という、素っ頓狂に大きな声が響き渡った。
驚いて、メモの手を止めて声の方に目を向けると、主席の横の椅子に腰掛けていた金容淳書記が直立不動の姿勢をとっているではないか。すかさず数字を代弁したのだ。
キムチの話が出てきた時も、書記は「家で漬けたキムチは春には酸っぱくなりましたが、今は工場で科学的に作るので、酸っぱくなりません」と、これも突っ立ってしゃべった。
主席は、そんな光景は当たり前、といった風である。「金王朝」の一端を見た思いがした。
その頃の金容淳氏は、というと、84年に党書記になり、程なく解任されたと推測されるが、90年5月に国際担当の党書記に選出された。その年の9月、日朝関係の大きな転機となった金丸・田辺両氏による自民・社会両党訪朝団との会談を労働党側代表としてこなし、国交正常化交渉開始を両国政府に勧告するとともに、日本の植民地支配についてだけでなく「戦後の償い」をも盛った3党共同宣言に署名した。
翌91年に党代表団を率いて来日、さらに92年1月には訪米してカンター米国務次官とニューヨークで会い、初の米朝高官会談をしきる。この年12月には対南担当書記となり、統一戦線部門が主体になるにつれてますます、金正日総書記(当時書記)の側近として振る舞っていく。
そんな当時の、いわば昇竜の勢いにあった金容淳書記だから、主席会見時のあの直立不動が意外に思えたのだ。極めて精悍な顔つきだった。小柄な人の多い北朝鮮にあって、身長はたぶん180センチを超える大柄で、「イノシシ」とのあだ名もあったらしい。
こわもてぶりが日本の反感をかったこともある。
95年当時の村山政権が北朝鮮へのコメ50万トン支援を決めた後、書記は韓国誌との会見で「日本が謝罪の意味でコメを送るというのに、受け入れないことはない」と語ったと報じられ、日本の世論は急に冷めた。99年の超党派による「村山訪朝団」に対して、その反省からか、書記は「過去の日本の食糧支援には感謝している」と表明した一方で、「拉致という言葉を使うこと自体が敵対的だ」と言い、同行の日本記者団には「わが国が日本との国交正常化を望んでいると書いた社はいるか? 望んでいるのは日本の方じゃないか」と声を荒げたという。
その書記は、筆者がソウル勤務をしていた2000年9月、今度は金正日総書記の特使として韓国にやって来た。随行の人民軍高官が運び役となり、総書記が贈ると約束した天然物の最高級マツタケ3トンも一緒だった。同年6月の史上初の南北朝鮮首脳会談で金容淳氏は始終、総書記に付き添っていた。この会談を機に、表面的には交流は進み、当時クリントン政権の米朝関係もうまく運びつつあった。
青瓦台に金大中大統領を訪ねた書記には、落ち着きが感じられた。6月の首脳同士の共同宣言で「適切な時期に」と表現された総書記のソウル訪問について、書記がその時、韓国側と交わした共同報道文では「近い時期に」とうたって一歩踏み込んだ。しかし、具体的な言質は与えない。
一時の飛ぶ鳥を落とす勢いよりも、書記のしたたかさ、老獪さ、といったものを筆者はソウルで感じた。
(next→) http://www.asahi.com/international/w-watch/TKY200310300293.html
北朝鮮のイメージを作り出した人物。
日本の政党外交の失敗相手=カウンターパート
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金容淳書記のこと
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歓迎会で朝鮮労働党の金容淳書記(中央)と会食する村山富市団長(左)と野中広務氏=1999年12月1日、平壌市の玉流館で
小菅 幸一(論説委員)
朝鮮労働党の金容淳(キム・ヨンスン)書記が69歳で死亡したという朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の報道を聞いて、すぐに92年3月31日の光景が思い浮かんだ。
平壌郊外の、現地では「招待所」と言っている瀟洒な迎賓館である。取材団の一員として、筆者は当時の金日成(キム・イルソン)主席との会見の末席にいた。
「わが国は今や『水の持ち主』になった。大同江の上流部を合わせると80億トンの貯水量となる。農業用水として十分だ」
話は水不足対策の取り組みに及び、主席は野太くしゃがれた声で冗舌にしゃべり続けた。
「このほかにも、全国に大小合わせて、貯水池を、えー……」と、主席が少し言いよどんだ瞬間、
「1700でありますっ」という、素っ頓狂に大きな声が響き渡った。
驚いて、メモの手を止めて声の方に目を向けると、主席の横の椅子に腰掛けていた金容淳書記が直立不動の姿勢をとっているではないか。すかさず数字を代弁したのだ。
キムチの話が出てきた時も、書記は「家で漬けたキムチは春には酸っぱくなりましたが、今は工場で科学的に作るので、酸っぱくなりません」と、これも突っ立ってしゃべった。
主席は、そんな光景は当たり前、といった風である。「金王朝」の一端を見た思いがした。
その頃の金容淳氏は、というと、84年に党書記になり、程なく解任されたと推測されるが、90年5月に国際担当の党書記に選出された。その年の9月、日朝関係の大きな転機となった金丸・田辺両氏による自民・社会両党訪朝団との会談を労働党側代表としてこなし、国交正常化交渉開始を両国政府に勧告するとともに、日本の植民地支配についてだけでなく「戦後の償い」をも盛った3党共同宣言に署名した。
翌91年に党代表団を率いて来日、さらに92年1月には訪米してカンター米国務次官とニューヨークで会い、初の米朝高官会談をしきる。この年12月には対南担当書記となり、統一戦線部門が主体になるにつれてますます、金正日総書記(当時書記)の側近として振る舞っていく。
そんな当時の、いわば昇竜の勢いにあった金容淳書記だから、主席会見時のあの直立不動が意外に思えたのだ。極めて精悍な顔つきだった。小柄な人の多い北朝鮮にあって、身長はたぶん180センチを超える大柄で、「イノシシ」とのあだ名もあったらしい。
こわもてぶりが日本の反感をかったこともある。
95年当時の村山政権が北朝鮮へのコメ50万トン支援を決めた後、書記は韓国誌との会見で「日本が謝罪の意味でコメを送るというのに、受け入れないことはない」と語ったと報じられ、日本の世論は急に冷めた。99年の超党派による「村山訪朝団」に対して、その反省からか、書記は「過去の日本の食糧支援には感謝している」と表明した一方で、「拉致という言葉を使うこと自体が敵対的だ」と言い、同行の日本記者団には「わが国が日本との国交正常化を望んでいると書いた社はいるか? 望んでいるのは日本の方じゃないか」と声を荒げたという。
その書記は、筆者がソウル勤務をしていた2000年9月、今度は金正日総書記の特使として韓国にやって来た。随行の人民軍高官が運び役となり、総書記が贈ると約束した天然物の最高級マツタケ3トンも一緒だった。同年6月の史上初の南北朝鮮首脳会談で金容淳氏は始終、総書記に付き添っていた。この会談を機に、表面的には交流は進み、当時クリントン政権の米朝関係もうまく運びつつあった。
青瓦台に金大中大統領を訪ねた書記には、落ち着きが感じられた。6月の首脳同士の共同宣言で「適切な時期に」と表現された総書記のソウル訪問について、書記がその時、韓国側と交わした共同報道文では「近い時期に」とうたって一歩踏み込んだ。しかし、具体的な言質は与えない。
一時の飛ぶ鳥を落とす勢いよりも、書記のしたたかさ、老獪さ、といったものを筆者はソウルで感じた。
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これは メッセージ 91037 (sofiansky2003 さん)への返信です.