小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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嘘つきへの反証事実!

投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/10/12 22:17 投稿番号: [89900 / 232612]
(1875年江華島事件   鎖国から開国へ)
日本との条約(日朝修好条規   1876年)は、大院君の反対を押しきって締結されたものであった。それで、大院君はただちに、それを王妃攻撃の武器として用いたが、1882年に至るまで大院君に好機は到来しなかった。同年5月、朝鮮とアメリカ合衆国とのあいだに条約の調印をみた。それによって、アメリカに対して朝鮮は門戸を開放したのである。その年の夏、朝鮮は大干ばつに見舞われた。穀物は枯れ果て、政府の財源は枯渇して、軍人や官吏の給料は不払いとなり、食料も欠乏した。人々は、『これは天の怒りだ』とか『我々は外国人の入国を許した。そしてその結果がこれだ』とかささやきあった。大院君の部下たちは忙しく東奔西走していたが、1882年7月23日夜半、彼らに率いられた暴徒の群れは、政府高官の私邸を襲い、彼らを寸断した後、ついに王宮へと侵入した。軍人たちもこの暴徒の群れに合流し、統治層を打倒せよとの激しい叫びは口々に爆発した。国王は奇跡的にも逃れたが暴徒たちは、閔妃だとばかり思い込んだ死体を凝視していた。誰もが、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと考えていた。しかし、閔妃は、暴徒の侵入の報に接するやいなやいち早く用意を整えた。すなわち、一人の侍女が閔妃のいる王宮で毒薬を飲み、閔妃はこっそり自分の部屋を抜け出したのであった。そして下僕の一人が彼女を背にして、怒り狂う暴徒の群れをかきわけてくぐり抜け、安全な場所へと逃れ去ったのである。暴徒の他の一群は日本人を襲撃した。街路上で離れ離れになっていた日本人たちは、たちまちにして殺害された。また多数の群衆が日本公使館を襲撃し、建物に火を放ったので、日本側は撤退せざるをえなかった。彼らは闇にまぎれてソウルを抜け出し、済物浦(今の仁川)へ落ちのびたが、途中で襲撃を受け、5名が殺害された。彼らは海上に逃れ本国に引き揚げたのであった。(この事件を壬午軍乱と呼ぶ)

日本国内では、朝鮮に対する即時報復説が台頭した。国内各地からの義勇兵志願者たちは、朝鮮におもむいてこれらの野蛮人どもと戦うことを許可するよう騒ぎ立てたが、日本政府は、これに対して懐柔的な方策を採った。公使花房義賢は、多数の武装護衛隊をしたがえて再びソウルにのりこみ、朝鮮政府に対して賠償を要求した。一方中国は、暴徒鎮圧のため4000名の軍隊を派遣した。閔妃は、逃避先から保護を求める要望書を北京に送り、大院君を犯罪的行為を犯した一派であると指摘した。これに対して大院君は、自分の計画が失敗したのを見て、花房に対して、これらの暴徒は自分の強力な制止努力にもかかわらず突発蜂起したものだと弁明した。中国の軍隊はソウル市街をその支配下に置いた。いっぽう日本政府は、巨額の賠償支払い、新しい公使館の設立、そして貿易・旅行上の特別の便宜供与を朝鮮政府に約束させた(漢城条約)。中国の軍隊は、残酷な方法で暴徒を処刑した。大院君自身も自由に行動することを許されなかった。彼は中国軍陣地の宴会に招かれたが、彼がそこに到着するやいなや海岸に連れて行かれ、そして船に乗せられて中国に送られたのである。李鴻章は、彼を罪人として白塘沽に送り、大院君はそこに、数年もの間拘留されたが、しかしこの白塘沽でも大院君は、いろいろな方法で、王座に対する策謀を引き続きはかったのである。。日本公使館襲撃と中国の干渉とは、後になって、日清戦争により解決されるに至る問題を引き起こしたのである。閔妃は、王宮に帰ったが、その勢力は以前にも増してよりいっそう増大した。
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