小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

なぜこの人は沖縄にこだわるのか?②

投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2003/10/09 22:55 投稿番号: [89643 / 232612]
沖縄サミット
  -2000年沖縄サミットに際し、一部報道機関が福岡と報道したが、土壇場で沖縄開催を故・小渕元首相が決めた。誰がいつ、どのような場面で決断したのか。
  「小渕さんは最初から、何とか沖縄でしたいとの思いを持っていた。確か8か所の候補地があり、各省が総合点数をつけたら沖縄は8番目だった。飛行機の便とか米軍基地があるとか、いろんな要素があったかと思うが、それでも、ということで、外務省を通じて駐日大使に沖縄開催を要請した。決定の前日の4月28日(99年)には、いったんノーで返ってきた。ところがしばらくしたら、フォーリー大使がもう1度クリントン大統領に話をすることになり、私と小渕首相は29日に徹夜したわけだ。フォーリー大使が大統領と話をしてようやくOKが出た。小渕総理の葬式に来たクリントン大統領が『小渕の無念を晴らすために沖縄のサミットを成功させましょう』と迎賓館で私の手を握ってくれたのを今、印象深く思い起こしている」
  -前の日までノーだったのか。
  「そうだ。一部の新聞報道で福岡開催と出たが、福岡という選択肢は最初から全くなかった。九州は福岡と宮崎が候補に挙がっていた。九州でどちらかに甲乙つけることはできなかった。宮崎の方がホテルも立派で、小渕さんも『シーガイアでサミットという部屋に泊まったんだよ』と徹夜した時に言っていた。だが、福岡は新幹線と空港と両方あり、甲乙つけられない。最悪の場合、米国がどうしても(沖縄開催が)駄目な時は、大阪城でやろうと考えていた。大阪城に入れたら全く安全だ。そこまで考えたが、最後まで沖縄にこだわり続けた。『沖縄県民かく戦えり…。(県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを)』という大田実中将の話もしていた。2人だけで、外務省の役人を誰も入れないで総理の執務室で話した。29日の未明に米国からOKが出た」
  -米国のゴーサインがなければ沖縄で開催できなかったわけか。
  「そうだ。できなかった。小渕さんは、心から沖縄を愛していた。特に稲嶺知事のお父さん(故・稲嶺一郎元参院議員)に世話になった早稲田の学生時代を懐かしく語り合った。外相をやったころからできれば沖縄でと考えていたんじゃないか。私はそう感じた」

◆自公協力
  -98年の県知事選挙では、稲嶺知事を支援するため公明党との橋渡しをしているが…。
  「三盛さん(故・三盛洲洋創価学会沖縄総長)と話をした」
  -衆院沖縄1区で下地幹郎氏(自民)と白保台一氏(公明)の対決が避けられない情勢だが。
  「前回の総選挙で自公協力のシンボリックなものにしたいと思い、鈴木宗男君を自民党総務局長にし『君の仕事は下地君を比例にすることだ』と言った。下地君も比例に回ってくれた。沖縄1区の自公協力が全体の自公の協力、連立政権の維持に果たしてきた役割は大きい。対決するようなことは避けてほしい」
  -前回、下地氏を比例候補にした際、次は選挙区でという話をしたか。
  「鈴木さん(宗男)にすべてを一任していたので分からない」
  -野中さん自身が約束したことはないか。
  「覚えていない」
  -沖縄の米軍基地をどう考えるか。
  「わが国の安全保障、米国の中近東を含むアジア政策の一環で、在日米軍基地のほとんどを沖縄に頼っていることは、戦略上必要であったとしても、沖縄県民にとっては大きな重圧だ。重圧が解消されるような努力を日本政府はやってほしい」
  -日米地位協定については。
  「地位協定が改正されればそれに越したことはない。在韓米軍についてもそういう道がやや開けそうにある。日本の地位協定も実効性のあるように改正できればありがたい。私は去り行く人間だから、その点に期待以上を言う立場にはない」
  「沖縄の苦しみ、痛みを知る政治家としてかかわってきたが、県民の支援、厚情をいただきながら、県民の期待に十分応えることができないまま政治の場から去っていくことを申し訳なく思う」
  (聞き手   東京報道部長・名城知二朗)(琉球新報)
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)