朝鮮の日本蔑視の思想?2
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/10/05 00:44 投稿番号: [89232 / 232612]
善隣友好どころか独善的なモノサシで日本を蔑視していた朝鮮通信使たち
「韓国の「民族」と「反日」」 田中明 1988年 朝日文庫
第二回通信使(1764年)に随行した金仁謙は「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「倭ノム」(ノムは「奴」といった意味)という言葉がしばしば出てくる。さらには、倭と音が通ずるので「穢ノム」という言葉までが使われている。
館舎は本国寺、五層の楼門には
十余の銅柱、天に達するばかりなり
水石も奇絶、竹林も趣あり
倭皇の住む所とて、奢移をば極め
帝王よ、皇帝よと称して、子孫に伝う
犬の糞が如き臭類はことごとく追い払いて
四千里六十州を、朝鮮の地となし
王化に浴せしめて、礼儀の国に作りたし。
筆者の自尊意識は甚だ強い。日本関白(将軍のこと)に国書を奉ずる儀式に出ると、前後四回、四拝せねばならぬと聞き、「堂々たる千乗国の、礼冠礼服着けたる身、頭を剃りたる醜類に、四拝なんどは以ての外」と、参席を拒み通している。したがって、その日本観察は蔑視と自尊のサイクルのなかに閉じこめられて終る。『海游録』の著者、申維翰(しんいかん)もそうだが、日本の都市や建築物の壮大さとか商業の盛んな様子は詳しく述べつつも、なぜそうなったかには関心が向わず、日本の風俗の淫靡なことや学の未熟さなどに目が転じてしまうのが特徴である。「日本は儒学は輸入したが儒教は入れなかった」という言葉がある一方、朝鮮はそれと反対に、習俗すべてを儒礼にそうよう言動を磨き上げることに努めた。したがって、家庭の秩序、男女の関係、衣冠制度など、儒家的な基準に合わぬことをする日本人は、朝鮮の知識人の目には全くの野蛮人に見えたのであった。
「「日帝」だけでは歴史は語れない」 呉善花 1997年 三交社
日本人を倭人と呼んで蔑視した朝鮮通信使
1719年(享保4)、日本を訪れた第8回朝鮮通信使一行の製述官(文人官僚)申維翰は、同行した日本側の接待役、対馬藩士雨森芳洲が、自分に向かって次のように言ったと記している。『日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、信義相変らず。…しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦(日本)に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼籍、言うに忍びないものがある。…こんにち諸公たちは、この意を知るや否や』『今でさえ諸従者(通信使一行の者たち)は、敵邦(日本)の人を呼んで必ず倭人という。また望むところにあらず』(申維翰『海游録』姜在彦訳/東洋文庫・平凡社)これに対して申維翰は、『それは壬辰の乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)以降に書かれた文章だろう』と言い、『秀吉は我が国の通天の仇であり、我が国の臣民ならば、その肉を切り刻んで食おうと思わない者はいない』と応じている。申維翰の主張は、『豊臣秀吉が韓国を侵略したから日本人を蔑称してよい』というものだ。実に情けない屁理屈を述べたものだが、しかも「壬辰の乱以降」というのはまったくのウソなのである。
韓半島に成立した諸国では、日本に対する正式な国書を別として、古代以来一貫して日本のことを蔑んで、「倭」あるいは「倭国」と書き習わし、「倭賊」とか「蛮夷」とか、さらに侮蔑的な表現を用いることが一般的に行なわれていた。その点では李朝も同じことだったのである。この雨森芳洲と申維翰のやりとりは、ほとんど現代にも通じるものだ。いまでも、韓国人どうしで日本人の悪口を言うときには、「日本奴(イルボンノム)」「倭奴(ウェノム)」「猪足(チョッパリ)」(日本人の足袋(たび)が豚の足のようであることから)などの蔑称を用いることは珍しくない。また、日本人との間に労使紛争や政治的軋轢などが生じると、日の丸を焼いたり侮蔑的な言葉を投げつけては抗議をする。日本人が「このような侮辱を受けるいわれはない」と言えば、韓国人は「日本人はかつて韓国を侵略し我々を苦しめたではないか」と応じる。申維翰の昔から同じパターンなのである。
「韓国の「民族」と「反日」」 田中明 1988年 朝日文庫
第二回通信使(1764年)に随行した金仁謙は「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「倭ノム」(ノムは「奴」といった意味)という言葉がしばしば出てくる。さらには、倭と音が通ずるので「穢ノム」という言葉までが使われている。
館舎は本国寺、五層の楼門には
十余の銅柱、天に達するばかりなり
水石も奇絶、竹林も趣あり
倭皇の住む所とて、奢移をば極め
帝王よ、皇帝よと称して、子孫に伝う
犬の糞が如き臭類はことごとく追い払いて
四千里六十州を、朝鮮の地となし
王化に浴せしめて、礼儀の国に作りたし。
筆者の自尊意識は甚だ強い。日本関白(将軍のこと)に国書を奉ずる儀式に出ると、前後四回、四拝せねばならぬと聞き、「堂々たる千乗国の、礼冠礼服着けたる身、頭を剃りたる醜類に、四拝なんどは以ての外」と、参席を拒み通している。したがって、その日本観察は蔑視と自尊のサイクルのなかに閉じこめられて終る。『海游録』の著者、申維翰(しんいかん)もそうだが、日本の都市や建築物の壮大さとか商業の盛んな様子は詳しく述べつつも、なぜそうなったかには関心が向わず、日本の風俗の淫靡なことや学の未熟さなどに目が転じてしまうのが特徴である。「日本は儒学は輸入したが儒教は入れなかった」という言葉がある一方、朝鮮はそれと反対に、習俗すべてを儒礼にそうよう言動を磨き上げることに努めた。したがって、家庭の秩序、男女の関係、衣冠制度など、儒家的な基準に合わぬことをする日本人は、朝鮮の知識人の目には全くの野蛮人に見えたのであった。
「「日帝」だけでは歴史は語れない」 呉善花 1997年 三交社
日本人を倭人と呼んで蔑視した朝鮮通信使
1719年(享保4)、日本を訪れた第8回朝鮮通信使一行の製述官(文人官僚)申維翰は、同行した日本側の接待役、対馬藩士雨森芳洲が、自分に向かって次のように言ったと記している。『日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、信義相変らず。…しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦(日本)に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼籍、言うに忍びないものがある。…こんにち諸公たちは、この意を知るや否や』『今でさえ諸従者(通信使一行の者たち)は、敵邦(日本)の人を呼んで必ず倭人という。また望むところにあらず』(申維翰『海游録』姜在彦訳/東洋文庫・平凡社)これに対して申維翰は、『それは壬辰の乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)以降に書かれた文章だろう』と言い、『秀吉は我が国の通天の仇であり、我が国の臣民ならば、その肉を切り刻んで食おうと思わない者はいない』と応じている。申維翰の主張は、『豊臣秀吉が韓国を侵略したから日本人を蔑称してよい』というものだ。実に情けない屁理屈を述べたものだが、しかも「壬辰の乱以降」というのはまったくのウソなのである。
韓半島に成立した諸国では、日本に対する正式な国書を別として、古代以来一貫して日本のことを蔑んで、「倭」あるいは「倭国」と書き習わし、「倭賊」とか「蛮夷」とか、さらに侮蔑的な表現を用いることが一般的に行なわれていた。その点では李朝も同じことだったのである。この雨森芳洲と申維翰のやりとりは、ほとんど現代にも通じるものだ。いまでも、韓国人どうしで日本人の悪口を言うときには、「日本奴(イルボンノム)」「倭奴(ウェノム)」「猪足(チョッパリ)」(日本人の足袋(たび)が豚の足のようであることから)などの蔑称を用いることは珍しくない。また、日本人との間に労使紛争や政治的軋轢などが生じると、日の丸を焼いたり侮蔑的な言葉を投げつけては抗議をする。日本人が「このような侮辱を受けるいわれはない」と言えば、韓国人は「日本人はかつて韓国を侵略し我々を苦しめたではないか」と応じる。申維翰の昔から同じパターンなのである。
これは メッセージ 89230 (netuzouhanntai さん)への返信です.