日本はどうして併合を求められたか9
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/09/14 17:27 投稿番号: [86683 / 232612]
開化派は1896年7月独立協会を結成して義兵運動とは別の民族運動を展開し始めた。政府に対し国家の自主独立を求め、ロシア人軍事・財政顧問の罷免を要求して成功したほか、迎恩門を取り壊して西洋風の独立門を建てた。迎恩門は朝鮮国王が宗主国清の皇帝の使者を、屈辱的な三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとう=跪いて頭で地面を三度叩いて立ち上がる、この動作を三回繰り返す)をして出迎えた場所で、中華冊封体制の象徴的場所であった。大衆運動に進出したが、巻き返しを図った守旧派の弾圧を受けて、1898年12月皇帝の命により会は解散させられ、協会幹部も逮捕投獄されてしまった。
1898年3月ロシアは日本が三国干渉で返還した遼東半島の旅順を租借し、海軍基地を建設するとともに極東総督府を設置し、極東への軍事進出を加速させた。さらに1899年から日本の対馬と目と鼻の先にあって、天然の良港である鎮海湾の土地買収を進めた。ロシアの対日戦略意図は火を見るより明らかであり、ここに海軍基地を建設されては、日本ののど元に刃を突きつけられたも同然となるため、日本も競って鎮海湾周辺の土地買収を図り、これを阻止した。日本はロシアとの軍事衝突が近いことをを意識し始めた。ロシアは北清事変(義和団事件・1900年)を機に満州へ8万の大軍を送り、事変後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手しはじめた。1902年2月、ロシアの南下政策によって中国・インド・中東で脅威にさらされていたイギリスと日英同盟を締結し、ロシアの進出を牽制した。ロシアは1903年7月、満韓国境となっている鴨緑江の韓国側の河口にある竜岩浦の租借権を獲得し兵営を建設した。8月、日露協商会議で日本はロシアに対し満州撤兵を要求するが、ロシアはこれを拒否して満州の占領を宣言し大兵力を送りこんだ。日本は世界最大の陸軍国ロシアと対峙する臨戦態勢になり、国内は緊迫した空気につつまれた。
1904年2月、日本軍が旅順港を攻撃することによって日露戦争が始まった。韓国政府は日露開戦を目前にして、局外中立を宣言したが、すでに漢城(ソウル)を制圧していたロシアはこれを無視し、関係各国も承認しなかった。日本が緒戦に勝利するや、韓国政府は態度を親露から親日に一変させ日韓議定書が結ばれた。これにより日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は日本の承認なしに第三国との条約を締結できないことが定められた。さらに8月第一次日韓協約を締結して、韓国政府に日本の推薦する財政・外交顧問を置くことを認めさせ、いわゆる顧問政治の道を開いて内政改革を推し進めた。戦争中反日義兵はさまざまな妨害活動を行ったが、韓国内には日本軍に積極的に協力する勢力もあり、公称百万人の会員を擁する一進会が鉄道建設・軍需物資の運搬に協力した(⇒資料6)。日露戦争は1905年1月旅順陥落、3月奉天会戦で勝利すると、5月には日本の連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を壊滅させ、9月にポーツマス条約を締結して日本の勝利に終わった。条約によってロシアは、日本の韓国に対する「指導保護及監理」の権利を認めた。その2ヵ月前に日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、アメリカは日本の韓国に対する宗主権を認めた。ついでイギリスも日本の韓国支配を認めた。これによって、日本の韓国に対する絶対的な優位が確立された。
1898年3月ロシアは日本が三国干渉で返還した遼東半島の旅順を租借し、海軍基地を建設するとともに極東総督府を設置し、極東への軍事進出を加速させた。さらに1899年から日本の対馬と目と鼻の先にあって、天然の良港である鎮海湾の土地買収を進めた。ロシアの対日戦略意図は火を見るより明らかであり、ここに海軍基地を建設されては、日本ののど元に刃を突きつけられたも同然となるため、日本も競って鎮海湾周辺の土地買収を図り、これを阻止した。日本はロシアとの軍事衝突が近いことをを意識し始めた。ロシアは北清事変(義和団事件・1900年)を機に満州へ8万の大軍を送り、事変後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手しはじめた。1902年2月、ロシアの南下政策によって中国・インド・中東で脅威にさらされていたイギリスと日英同盟を締結し、ロシアの進出を牽制した。ロシアは1903年7月、満韓国境となっている鴨緑江の韓国側の河口にある竜岩浦の租借権を獲得し兵営を建設した。8月、日露協商会議で日本はロシアに対し満州撤兵を要求するが、ロシアはこれを拒否して満州の占領を宣言し大兵力を送りこんだ。日本は世界最大の陸軍国ロシアと対峙する臨戦態勢になり、国内は緊迫した空気につつまれた。
1904年2月、日本軍が旅順港を攻撃することによって日露戦争が始まった。韓国政府は日露開戦を目前にして、局外中立を宣言したが、すでに漢城(ソウル)を制圧していたロシアはこれを無視し、関係各国も承認しなかった。日本が緒戦に勝利するや、韓国政府は態度を親露から親日に一変させ日韓議定書が結ばれた。これにより日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は日本の承認なしに第三国との条約を締結できないことが定められた。さらに8月第一次日韓協約を締結して、韓国政府に日本の推薦する財政・外交顧問を置くことを認めさせ、いわゆる顧問政治の道を開いて内政改革を推し進めた。戦争中反日義兵はさまざまな妨害活動を行ったが、韓国内には日本軍に積極的に協力する勢力もあり、公称百万人の会員を擁する一進会が鉄道建設・軍需物資の運搬に協力した(⇒資料6)。日露戦争は1905年1月旅順陥落、3月奉天会戦で勝利すると、5月には日本の連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を壊滅させ、9月にポーツマス条約を締結して日本の勝利に終わった。条約によってロシアは、日本の韓国に対する「指導保護及監理」の権利を認めた。その2ヵ月前に日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、アメリカは日本の韓国に対する宗主権を認めた。ついでイギリスも日本の韓国支配を認めた。これによって、日本の韓国に対する絶対的な優位が確立された。
これは メッセージ 86651 (toi_et_moi_is さん)への返信です.