日本はどうして併合を求められたか8
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/09/14 17:26 投稿番号: [86682 / 232612]
大院君が復権し、親露派を排除して開化派を中心とする親日内閣が組閣され、改革政策を復活させた。しかし閔妃事件で反日感情が高まっている状況下で、11月金弘集内閣によって発令された断髪令は、反日・反開化の動きを武装闘争へと導く契機となった。(⇒資料4)その頃の朝鮮人男性は、後頭部で髪を丸めたマゲを結っており、未婚男性は髪を腰まで伸ばしていた。「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝のはじめなり」という儒教の教えにしたがって、髪を切ることを罪悪視していたのである(そのくせ、○ん○んを切って宦官になるのは構わないというのが理解できない)。高宗国王は率先して髪を切り範を示したが、衛正斥邪を唱える儒者たちにとって断髪令は、小中華朝鮮の礼俗を捨て去り、夷狄(野蛮人)に堕するものと受けとられた。翌1896年1月、在地両班の指導下に農民を組織した義兵が蜂起し、「尊中華攘夷狄」を唱えて開化派政権の打倒を目指す反乱を起こした。蜂起は急速に拡大して開化派人士や日本人を殺害し地方都市を占領した。金弘集政権は鎮圧のため政府軍を派遣したが、政府軍が大挙出動している隙をついて、守旧派の親露派官僚がロシアと謀ってクーデターを起こした。国王高宗が王宮を捨ててロシア公使館へ突然移り住んだ(露館播遷・2月)。ロシアは事前に公使舘の整備を名目として歩兵部隊を派遣しており、日本は手出しができなかった。高宗は親日政権の首脳たちを逆賊として捕殺するよう命じた。ソウルで暴動が起こり、領議政(首相)であった金弘集と二人の閣僚が群衆によって惨殺され、親日政権は崩壊した。親露内閣が成立し、ロシア公使館が朝鮮の中心となった。高宗はその後も1年余りにわたってロシア公使館に滞在し、すべての政治はロシアの掌中にあった。日本人顧問や、日本人軍教官は全員が解任され、ロシア人顧問や、ロシア人軍教官と交替した。内政面では甲午改革に逆行する動きが進んだ。
高宗は1897年2月ロシア公使館を出て、国号を大韓帝国と改めるとともに、皇帝を称した(10月)。財政難の政府は列強諸国に巨額の借金を申し込むとともに、鉄道敷設権、鉱山採掘権、森林伐採権を露、米、英、仏、独に次々と切り売りしていった。それにもかかわらず国家財政は改善せず破産寸前に陥った。このように亡国への道をたどる不安定な朝鮮半島での日ロの軍事衝突を予防し、勢力均衡を目的とする交渉が行なわれた。1896年の山県・ロバノフ協定の交渉、2年後の駐韓公使スバイヤー提案、さらに1903年の小村・ローゼン会談において朝鮮半島を北緯38度線あるいは39度線を境に、それぞれを両国の勢力下に置くことが協議されたが実現には至らなかった。しかしその後、第二次大戦でアメリカとソ連が38度線を境に朝鮮半島を南北に分割占領して、それぞれの傀儡政権をたてた。(⇒資料5)
これは メッセージ 86651 (toi_et_moi_is さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143583/beaec0tbcsaja4nkacdaba4h2ddbja4ka4da4a4a4fa1ya1ya1ya1ya1y_1/86682.html