日本はどうして併合を求められたか7
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/09/14 17:24 投稿番号: [86680 / 232612]
1895年2月日本海軍は北洋艦隊を敗走させ、日清戦争は日本の勝利によって終わり、4月伊藤博文と李鴻章が出席して下関条約が結ばれた。その内容は、日本が遼東半島・台湾を獲得するとともに、第一条で清国が朝鮮を自主独立の国と認めると明記された。これによって清国への朝貢は廃され、千数百年に及んで朝鮮を従属国の位置に貶め、自主独立を阻んできた元凶の中華秩序は崩壊した。これは朝鮮の歴史で特筆大書すべき出来事であった。しかし、日本が朝鮮半島と遼東半島において優位を占めることは、南下政策を進めるロシアの容認できることではなかった。ロシアは、フランス、ドイツと組んで、日本が遼東半島を清国から奪ったことが、東洋の平和を乱すことになるといって、遼東半島を清国へ返還するように要求した。日本の10倍の国家予算と軍事力を持つロシアに、日本は対抗できる力を持っていなかったので三国干渉に屈した(5月)。閔妃をはじめとする守旧派は、日本がロシアを中心とする三ヵ国の要求に屈したのを見て、日本を侮るようになり、ロシアへ接近しその勢力を国内に自ら引き入れていった結果、開化派が退けられ日本の影響力が大きく後退した。これにより開明的な甲午改革は、中途で挫折してしまった。日本が自己犠牲まで払って清国と戦い、朝鮮を独立させたにもかかわらず、ロシアに事大しようとする政治姿勢に、日本人の対朝鮮不信感は著しく増大した。
ロシアの朝鮮進出に危機感を持った日本の三浦梧楼公使は、朝鮮のロシア接近の元凶は、宮廷を牛耳っている閔妃にあるとして、大院君と共謀して1895年10月、日本軍の守備隊と朝鮮軍の訓練隊、武装した日本人壮士を宮中に侵入させて、閔妃を殺害した(乙未事変)。日本はこの事件について列強諸国の非難を浴びたために、三浦以下関係者40数名を日本へ送還して裁判を行なわねばならなかった。広島で行なわれた裁判では証拠不十分で免訴となり、朝鮮で行なわれた裁判では、李周會ら朝鮮人3人が死刑となってこの件は決着した。
これは メッセージ 86679 (netuzouhanntai さん)への返信です.
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