日本の台湾統治2
投稿者: usotuken21 投稿日時: 2003/09/05 23:29 投稿番号: [85311 / 232612]
第一節
台湾民主国と武装抵抗
●台湾民主国の抵抗
西暦一八九五年(清の光緒二十一年)四月、中日両国は下関条約を締結し、台湾・澎湖を日本に割譲した。台湾官民は再三にわたって清廷に撤回を求め、同時に列強の支援を得ようとしたが、ことごとく失敗し、自己努力を残すのみとなった。五月二十五日、「台湾民主国」を樹立して巡撫の唐景(山+岩)を総統に推挙し、議会などの機構を開設し、丘逢甲を義勇軍の指揮官となし、日本の接収に抵抗した。
しかし、日本軍の上陸後すぐに守備隊は壊滅し、唐景(山+岩)や丘逢甲らは相次いで中国大陸に渡った。六月、日本軍は台北に入り、台湾統治の開始を宣言した。台南に陣取る劉永福は軍民を指揮して抵抗を継続した。 六月下旬、日本軍は南下し、各地の民衆はつぎつぎと義勇軍(注①)を組織して在台の新楚軍(注②)、黒旗軍(注③)と勇敢に抵抗したが、最後には日本軍との兵力、武器の大きな差により、つぎつぎと敗退していった。十月下旬、劉永福も守備を放棄して大陸に渡り、日本軍は台南を占領し、民主国の抵抗は完全に崩壊した。
日本は台湾軍民の勇敢な防衛抗戦に対し、大軍を出動させて鎮圧した。台湾軍民で戦死もしくは殺害された者は一万四千人の多数にのぼり、犠牲は大きかった。
●各地義民の武装抵抗
一八九五年十一月、台湾総督府が全島平定を宣言したあとにも、各地には武装抵抗事件が相次いで発生した。各地の義民による武装抵抗は、およそ前期と後期の二期に分けられる。一九〇二年までを前期とし、この時期の抵抗は、屍を乗り越えていくというものであり、参加した民衆は多い場合で数千人、少ないときでも数百人で、その大部分はゲリラ戦法をとり、日本人の虚を突き大きな打撃を与えた。
当初、総督府は残酷な報復的鎮圧を展開し無差別的殺傷を進め、かえって民衆を抗日へと駆り立てるところとなった。その後「三段警備制」の実施に改め、治安状況によって全島を危険、不穏、安定の三区分に分類し、区分ごとに軍隊、憲兵、警察が警備に責任を負ったが、効果はあまりなかった。一八九八年、総督の児玉源太郎は積極的に鎮撫と策略の方法を採用し、警察力を拡充し壮丁団(注④)を活用して武力鎮圧を進める一方、招降策を定めて抗日勢力の投降を勧誘した。一九〇二年、各地の抗日勢力はつぎつぎと崩壊し、民間が所有する武器をすべて没収し、この七年間に抗日運動に加わって戦死あるいは逮捕殺害された者は一万人余に達した。
一九〇七年から一九一五年が後期となる。この時期に、台湾各地で前後して十を越す民族革命的な抗日事件が発生し、各事件はいずれも一挙に在台日本人を殲滅し駆逐することを謀議していた。しかし、参加人数は苗栗事件、西来庵(現在の台南市内に存在)事件が相応の規模であったのをのぞき、その他はわずか十数人から百余人程度のものであった。
当時、総督府の台湾社会に対する統制は非常に厳格で、各事件は謀議の段階で総督府に察知されるところとなっていた。一九一三年、苗栗事件で死刑に処せられた者は、羅福星など二十人であったが、いずれも刑場において死への気概を従容として示し、このため現場の日本官憲を感動させた。一九一五年、西来庵事件によって逮捕された者は二千人近くに達し、最終的に処刑された者は余清芳ら百余人であった。
●霧 社 事 件
一九三〇年十月、霧社地区の先住民は日本官憲の横暴と圧迫を不満とし、頭目モーナ・ルーダオの指揮下に学校の運動会に参加していた日本人に突撃して百三十四人を殺害し、武器と弾薬を奪い、そのあと山中に撤退した。
事件発生後、総督府は軍隊と警察二千余人を召集し、爆撃機や毒ガス等を使用して強力な鎮圧を展開した。霧社の先住民は五十余日にわたって抵抗したが、結局失敗し、当初一千四百人であった人口がわずか五百人となった。翌年四月、日本警察は親日先住民を使って攻撃し、ふたたび多数を殺害した。
この事件によって総督府は先住民政策を再検討せざるを得なくなり、台湾総督など関係官吏は引責辞任をした。
●台湾民主国の抵抗
西暦一八九五年(清の光緒二十一年)四月、中日両国は下関条約を締結し、台湾・澎湖を日本に割譲した。台湾官民は再三にわたって清廷に撤回を求め、同時に列強の支援を得ようとしたが、ことごとく失敗し、自己努力を残すのみとなった。五月二十五日、「台湾民主国」を樹立して巡撫の唐景(山+岩)を総統に推挙し、議会などの機構を開設し、丘逢甲を義勇軍の指揮官となし、日本の接収に抵抗した。
しかし、日本軍の上陸後すぐに守備隊は壊滅し、唐景(山+岩)や丘逢甲らは相次いで中国大陸に渡った。六月、日本軍は台北に入り、台湾統治の開始を宣言した。台南に陣取る劉永福は軍民を指揮して抵抗を継続した。 六月下旬、日本軍は南下し、各地の民衆はつぎつぎと義勇軍(注①)を組織して在台の新楚軍(注②)、黒旗軍(注③)と勇敢に抵抗したが、最後には日本軍との兵力、武器の大きな差により、つぎつぎと敗退していった。十月下旬、劉永福も守備を放棄して大陸に渡り、日本軍は台南を占領し、民主国の抵抗は完全に崩壊した。
日本は台湾軍民の勇敢な防衛抗戦に対し、大軍を出動させて鎮圧した。台湾軍民で戦死もしくは殺害された者は一万四千人の多数にのぼり、犠牲は大きかった。
●各地義民の武装抵抗
一八九五年十一月、台湾総督府が全島平定を宣言したあとにも、各地には武装抵抗事件が相次いで発生した。各地の義民による武装抵抗は、およそ前期と後期の二期に分けられる。一九〇二年までを前期とし、この時期の抵抗は、屍を乗り越えていくというものであり、参加した民衆は多い場合で数千人、少ないときでも数百人で、その大部分はゲリラ戦法をとり、日本人の虚を突き大きな打撃を与えた。
当初、総督府は残酷な報復的鎮圧を展開し無差別的殺傷を進め、かえって民衆を抗日へと駆り立てるところとなった。その後「三段警備制」の実施に改め、治安状況によって全島を危険、不穏、安定の三区分に分類し、区分ごとに軍隊、憲兵、警察が警備に責任を負ったが、効果はあまりなかった。一八九八年、総督の児玉源太郎は積極的に鎮撫と策略の方法を採用し、警察力を拡充し壮丁団(注④)を活用して武力鎮圧を進める一方、招降策を定めて抗日勢力の投降を勧誘した。一九〇二年、各地の抗日勢力はつぎつぎと崩壊し、民間が所有する武器をすべて没収し、この七年間に抗日運動に加わって戦死あるいは逮捕殺害された者は一万人余に達した。
一九〇七年から一九一五年が後期となる。この時期に、台湾各地で前後して十を越す民族革命的な抗日事件が発生し、各事件はいずれも一挙に在台日本人を殲滅し駆逐することを謀議していた。しかし、参加人数は苗栗事件、西来庵(現在の台南市内に存在)事件が相応の規模であったのをのぞき、その他はわずか十数人から百余人程度のものであった。
当時、総督府の台湾社会に対する統制は非常に厳格で、各事件は謀議の段階で総督府に察知されるところとなっていた。一九一三年、苗栗事件で死刑に処せられた者は、羅福星など二十人であったが、いずれも刑場において死への気概を従容として示し、このため現場の日本官憲を感動させた。一九一五年、西来庵事件によって逮捕された者は二千人近くに達し、最終的に処刑された者は余清芳ら百余人であった。
●霧 社 事 件
一九三〇年十月、霧社地区の先住民は日本官憲の横暴と圧迫を不満とし、頭目モーナ・ルーダオの指揮下に学校の運動会に参加していた日本人に突撃して百三十四人を殺害し、武器と弾薬を奪い、そのあと山中に撤退した。
事件発生後、総督府は軍隊と警察二千余人を召集し、爆撃機や毒ガス等を使用して強力な鎮圧を展開した。霧社の先住民は五十余日にわたって抵抗したが、結局失敗し、当初一千四百人であった人口がわずか五百人となった。翌年四月、日本警察は親日先住民を使って攻撃し、ふたたび多数を殺害した。
この事件によって総督府は先住民政策を再検討せざるを得なくなり、台湾総督など関係官吏は引責辞任をした。
これは メッセージ 85308 (den00_goro さん)への返信です.