小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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愛憎の船 バンケイ峰号3

投稿者: ahoahoahochann7 投稿日時: 2003/08/22 21:59 投稿番号: [83234 / 232612]
第2回 「帰還事業」 (2003年08月10日掲載)


「楽園」「人道」裏切られ
届かなかった反対の訴え

  五色のテープが飛び交う新潟西港。1959年12月、大勢の県民たちが岸壁に
立ち、日本海の冷たい風をほおに受けながら、北朝鮮への帰還船を見送って
いた。これが、今の万景峰号往来のルーツだ。ほとんどが「楽園」「人道」
という言葉を信じた時代だった。

  当時、新潟市内の旅館経営者でつくる組合の事務員だった本吉慶子さん
(60)=都内在住=もそんな1人。帰国する在日朝鮮人たちの幸せを願い、芸
者さんと一緒に手向けに佐渡おけさを踊った。

  「帰国事業は、日朝間の平和の象徴のようでした」。善意の汗を流してき
ただけに「裏切られた」との思いは深い。

  拉致事件や、帰国者の悲惨な暮らしぶりのニュースを聞くに付け、胸が張
り裂けそうになる。

  現在、都内の県人たちと拉致解決を求める署名活動を続けている。人前で
話すのは得意な方ではない。それでも、勇気を振り絞って街頭に出る。

  「拉致された人、帰国した人、みんな被害者です。体制というものがどれ
ほどの意味があるのか私には分かりませんが、家族を引き裂いてまで守らな
ければならないものなんてあるのですか」

   ■    □    ■   

  59年12月、東京・国鉄品川駅。「帰国反対」の叫びもむなしく、ホームに
立ちつくす在日一世の男性(75)の耳に汽笛が響いた。第1次帰国者の乗った
列車が、新潟に向けてゆっくりと動き出した。

  「ポー、ポー、ポーと3度聞こえた。いろんなものがぶわ―っと込み上げ
て、勝手に涙がこぼれて止まらなかった」

  男性は在日本大韓民国民団の若手として「北送反対運動」に奔走してい
た。民団、そして韓国政府が帰還事業阻止に動いた理由は国際政治力学の要
素も絡み、単純ではない。ただ、男性個人は「人道」の立場から反対だっ
た。

  戦前、平壌の比較的富裕な家で生まれた男性は予科練に入るため来日し
た。だが戦後、北朝鮮の家族たちは「新政権」に追われ、大半は行方不明
に。ただ1人連絡がついた姉は南に逃れていた。姉たちから北の「疲弊」の
現実を知らされていた。それだけに「楽園」の話を即座に「うそだ」と思っ
た。帰国者が生活に苦しむ予感がした。

  当時日本では朝鮮半島、特に北朝鮮の情報は極めて少なく、窓口役の在日
本朝鮮人総連合会発表の情報が「真実」として出回っていた。だから男性ら
の訴えに世間は「白眼視、あほ扱い。ドンキホーテみたいなものだった」。
情けなくなるほど、反対の声は届かなかった。

  男性は今、万景峰号の入港問題について「不正や疑惑があるとしたら、そ
の現実を直視しなければならない。ときには『ノー』も人道、勇気だ」と静
かに語る。

   □    ■    □   

  横田めぐみさん拉致の事実が、元北朝鮮工作員の証言で明らかになった97
年。小沢辰男さん(86)=当時衆院議員=は5月、非公式にジュネーブの国際
赤十字社へ飛んだ。帰還事業推進に動いた同社に、拉致や帰国者問題の考え
を聞くためだ。

  日赤帰国センター長として帰還事業に努力した小沢さん自身、北朝鮮に対
する悔しい気持ちでいっぱいだった。だが国際赤十字社の高官は「担当が代
替わりしていて、当時の状況は分からない」と繰り返すだけだったという。

  小沢さんは振り返る。「時代だったと口にするのは簡単だが、それは違
う。(過去は)今につながっている。だれもが(人ごとにしないで)考えな
くてはいけない」。いつの時代も、割り切れぬ思いを抱えている人は多い。
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