小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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>>六カ国協議とミュンヘン会議①

投稿者: masa4618 投稿日時: 2003/08/11 00:01 投稿番号: [82239 / 232612]
この二の舞だけは避けたいと思います。

ミュンヘン会議(1938年9月29日〜30日)、チェコスロバキア解体(1939年)


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  1938年9月29日〜30日、ヨーロッパ列強(英仏独伊)がチェコスロバキア問題を話し合った会議。この会議で、8項目からなる協定書、付属協定、3つの付属宣言が1938年9月29日付けで署名された。
  当時、領土拡張を目論むドイツは、ドイツ系住民が多数住むズテーテン地方の割譲をチェコスロバキアに強要したが、チェコスロバキア政府はこれを断固として拒否し、動員令を発令し戦争を辞さない姿勢をとった。また、フランスとソ連(当時)はそれぞれ1924年、1935年にチェコスロヴァキアに対する援助条約を結んでいたので、ズデーテン・ドイツの問題が大きな戦争に発展する危険が生まれた。
  戦争拡大をおそれたヨーロッパ列強は、戦争回避の方法を模索し、イタリアの仲介でミュンヘンでチェコ問題を話し合った。参加国はイギリス(ネヴィル・チェンバレン首相)、フランス(ダラディエ首相)、ドイツ(アドルフ・ヒトラー総統)、イタリア(ベニト・ムッソリーニ首領)。
  会議は終始、ヒトラーの独壇場となり、また戦争回避を望む英仏の思惑もあって、この会議で取り決められたミュンヘン協定には、チェコスロバキアの国家主権・領土保全を条件にドイツへのズデーテン地方割譲を認めるというヒトラーの主張がそのまま盛り込まれた。しかし、この協定は、当事国チェコスロバキア(この時、参加が許されず、会議の隣室で結果を待つ身であった。)と、隣国の大国ソ連抜きで行われたこと(このことは後に英仏と、ソ連、チェコスロバキアの間に大きなしこりとなって影響していく)、なにより英仏の譲歩的な態度がヒトラーを増長させる結果となった。
  領土割譲を英仏から強いられたチェコスロバキアは当てにしていた国際的な支援の道が絶たれたことに落胆し(1938年9月30日午前2時15分チェンバレンは隣室で待っていたチェコスロヴァキア代表に結果を報告。そのとき代表は落涙したという。)、この要求を受け入れた。これは、同様に領土拡張の野心を持った近隣諸国、ポーランド、ハンガリーを刺激し、チェコスロヴァキア政府に自国民が多数を占める地方、ポーランドはテッシェン地方(1938年8月併合)、ハンガリーは南部スロヴァキア(1938年11月併合)とルテニア地方(1939年3月併合)の割譲を要求した。これに対し、チェコスロヴァキア政府は抗することもできず、唯々諾々とこれを認めてしまう。
  さらに1939年3月、ヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領ハーハをベルリンに呼びつけ、チェコスロヴァキア政府に対し、ボヘミア、モラヴィア地方をドイツ領とする協定への署名を強要し、署名されない場合は、チェコスロヴァキアの首都プラハを空襲すると脅した。ヒトラーによって周到に仕組まれた国内の民族運動で国内の統一も失われ、ズデーテン要塞地帯を失い丸裸となったチェコスロヴァキア政府はこれに抗することはできず、大統領ハーハは署名し、1939年3月15日〜16日、ドイツ軍はチェコに進駐した。同年5月16日にベーメン・メーレン地方はドイツ保護領に、9月1日にドイツに併合され、チェコスロヴァキアは地図から消滅した。
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