尖閣列島の実効支配4
投稿者: fumufumun483 投稿日時: 2003/06/23 22:52 投稿番号: [75527 / 232612]
12月27日、内務省から外務省へ、去年11月の沖縄県知事の申請に回答して、魚釣島と久場島に標杭をたてさせることについて、秘密文書で協議した。その本文は次の通りである
「秘別<朱書>第一三三号
久場島、魚釣島へ所轄標杭建設の儀、別紙甲号<註 省略>の通り沖縄県知事より上申候処、本件に関し別紙乙号の通り明治十八年貴省と御協議の末指令に及びたる次第もこれ有り候へども、其の当時と今日とは事情も相異候に付き、別紙閣議提出の見込にこれ有り候条、一応御協議に及び候也
明治廿七年十二月廿七日
内務大臣子爵 野村 靖(印)
外務大臣子爵 陸奥宗光殿」
この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。
「沖縄県下八重山群島の北西に位する久場島、魚釣島は、従来無人島なれども、近来に至り該島へ向け漁業等を試むる者これ有り、之が取締りを要するを以て、同県の所轄とし標杭建設致したき旨、同県知事より上申これ有り、右は同県の所轄と認むるに依り、上申の通り標杭を建設せしめんとす。 右閣議を請ふ」
この協議書は、九年前の同じ問題についての協議書とちがって、とくに朱書の「秘」とされていることが注目される。政府はよほどこの問題が外部にもれるのを恐れていたとみえる。
外務省も今度は何の異議もなかった。年が明けて1895年(明治28年)1月11日、陸奥外相は野村内相に、「本件に関し本省に於て別段異議これ無きに付、御見込の通り御取計相成り然るべしと存候」と答えた。ついで同月十四日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月21日、内務大臣から沖縄県知事に、「標杭建設に関する件請議の通り」と指令した。
日清戦争と尖閣諸島
ここまでを年表にして纏めよう。
1879年 琉球が中国との冊封関係を解消する。(中国と尖閣の関係が皆無になる)
1885年 古賀が沖縄県庁に、この島で営業するための借地願いを出す。
1885年 内務省が沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令。
1885年09月22日 沖縄県令・西村は、「久場島、魚釣島は、古来より本県において称する所名。しかし、これらの島には中国名でも命名されており、清国が航行の目標にした。よって調査が必要」と、内務省に報告。
1885年10月09日 山県内務卿は閣議に提案するため、先ず外務卿と協議。実地調査の上で直ちに国標を建てたい旨を伝える。
1885年10月11日 外務省は、「国標建設は他日の機会にするべし。」と、内務省に伝える。
1885年11月24日 沖縄県令は雲出丸の調査報告を内務卿へ。「清国との関係無きにしもあらず」
1880年代後半 古賀が尖閣諸島で事業を開始する。(実効支配)
1889年 沖縄県師範学校教諭・黒岩恒が『地質学雑誌』に「尖閣群島」という論文を載せる。
1890年 黒岩恒が尖閣群島と黄尾嶼を総称して「尖閣列島」と名付ける。
(このとき初めて尖閣列島と云う名称が表れる。)
1890年01月13日 沖縄県は5年前とは一転して国標を建てる事を国に要請。(当時の知事は丸岡莞爾)
1893年11月02日 原繁沖縄県知事は尖閣に標杭を建設したい旨を、内務・外務両大臣に上申。
1894年08月01日 日本、清国に対し宣戦布告
1894年12月27日 内務省から外務省へ、沖縄県の申請に回答して、尖閣に標杭を建てる事について秘密文書で協議。
1895年01月11日 陸奥外相は野村内相に、尖閣に異議無しと回答。
1895年01月14日 閣議で沖縄県所轄として標杭を建てる事を決定。
1895年01月21日 内務大臣から沖縄県知事に魚釣、久場両島に沖縄県所轄の標杭を建てるよう指令。
1895年04月17日 日清講和条約(下関条約)成立。
1895年06月10日 古賀が「官有地拝借願」を内務省に出す。
上記の年表を見ても分かるように、外務省は一貫して尖閣と清国との関係を重視している。ところが日清戦争で日本の勝利が確実となると、外務省も尖閣に国標を建てることに同意する。これについて中国はこう説明する。「1885年の政府は、清国の抗議をおそれて、あえてふみきれなかったが、95年の政府は、清国との戦争に大勝した勢いに乗じて、これを取ることにきめた。すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである」
「秘別<朱書>第一三三号
久場島、魚釣島へ所轄標杭建設の儀、別紙甲号<註 省略>の通り沖縄県知事より上申候処、本件に関し別紙乙号の通り明治十八年貴省と御協議の末指令に及びたる次第もこれ有り候へども、其の当時と今日とは事情も相異候に付き、別紙閣議提出の見込にこれ有り候条、一応御協議に及び候也
明治廿七年十二月廿七日
内務大臣子爵 野村 靖(印)
外務大臣子爵 陸奥宗光殿」
この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。
「沖縄県下八重山群島の北西に位する久場島、魚釣島は、従来無人島なれども、近来に至り該島へ向け漁業等を試むる者これ有り、之が取締りを要するを以て、同県の所轄とし標杭建設致したき旨、同県知事より上申これ有り、右は同県の所轄と認むるに依り、上申の通り標杭を建設せしめんとす。 右閣議を請ふ」
この協議書は、九年前の同じ問題についての協議書とちがって、とくに朱書の「秘」とされていることが注目される。政府はよほどこの問題が外部にもれるのを恐れていたとみえる。
外務省も今度は何の異議もなかった。年が明けて1895年(明治28年)1月11日、陸奥外相は野村内相に、「本件に関し本省に於て別段異議これ無きに付、御見込の通り御取計相成り然るべしと存候」と答えた。ついで同月十四日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月21日、内務大臣から沖縄県知事に、「標杭建設に関する件請議の通り」と指令した。
日清戦争と尖閣諸島
ここまでを年表にして纏めよう。
1879年 琉球が中国との冊封関係を解消する。(中国と尖閣の関係が皆無になる)
1885年 古賀が沖縄県庁に、この島で営業するための借地願いを出す。
1885年 内務省が沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令。
1885年09月22日 沖縄県令・西村は、「久場島、魚釣島は、古来より本県において称する所名。しかし、これらの島には中国名でも命名されており、清国が航行の目標にした。よって調査が必要」と、内務省に報告。
1885年10月09日 山県内務卿は閣議に提案するため、先ず外務卿と協議。実地調査の上で直ちに国標を建てたい旨を伝える。
1885年10月11日 外務省は、「国標建設は他日の機会にするべし。」と、内務省に伝える。
1885年11月24日 沖縄県令は雲出丸の調査報告を内務卿へ。「清国との関係無きにしもあらず」
1880年代後半 古賀が尖閣諸島で事業を開始する。(実効支配)
1889年 沖縄県師範学校教諭・黒岩恒が『地質学雑誌』に「尖閣群島」という論文を載せる。
1890年 黒岩恒が尖閣群島と黄尾嶼を総称して「尖閣列島」と名付ける。
(このとき初めて尖閣列島と云う名称が表れる。)
1890年01月13日 沖縄県は5年前とは一転して国標を建てる事を国に要請。(当時の知事は丸岡莞爾)
1893年11月02日 原繁沖縄県知事は尖閣に標杭を建設したい旨を、内務・外務両大臣に上申。
1894年08月01日 日本、清国に対し宣戦布告
1894年12月27日 内務省から外務省へ、沖縄県の申請に回答して、尖閣に標杭を建てる事について秘密文書で協議。
1895年01月11日 陸奥外相は野村内相に、尖閣に異議無しと回答。
1895年01月14日 閣議で沖縄県所轄として標杭を建てる事を決定。
1895年01月21日 内務大臣から沖縄県知事に魚釣、久場両島に沖縄県所轄の標杭を建てるよう指令。
1895年04月17日 日清講和条約(下関条約)成立。
1895年06月10日 古賀が「官有地拝借願」を内務省に出す。
上記の年表を見ても分かるように、外務省は一貫して尖閣と清国との関係を重視している。ところが日清戦争で日本の勝利が確実となると、外務省も尖閣に国標を建てることに同意する。これについて中国はこう説明する。「1885年の政府は、清国の抗議をおそれて、あえてふみきれなかったが、95年の政府は、清国との戦争に大勝した勢いに乗じて、これを取ることにきめた。すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである」
これは メッセージ 75523 (fumufumun483 さん)への返信です.