スターリン批判 1
投稿者: masa4618 投稿日時: 2003/03/23 01:46 投稿番号: [57909 / 232612]
スターリン批判「マルクス主義がヒューマニズムを原則とすることによる問題とは何であろうか。常識的なレベルで考えれば、それはマルクス主義が批判してきたはずの宗教や道徳、倫理とおなじ地平に立ち、扱われるものとなるということだ。つまり、宗教や道徳、倫理といった慣習、伝統、はたまたもともと人間に備わっている本性といったものの、少し社会に関心が広がった程度の「モラル」だということになる。ところが、この「モラル」が曲者で伝統とか道徳といったものがその名の下にその時代、その時代の体制擁護のイデオロギーとして働いてきたのはいうまでもない。しかしながら次に歴史的に見ていく通り、マルクス主義がヒューマニズムをその原則とするにたる理由があったことも否定できないのである。その例としてやはり1956年2月のソ連共産党第二十回大会におけるフルシチョフによるスターリン批判を出発点に挙げるのが適切であろう。
スターリンは一国社会主義の建設と防衛において、国内的には1928年から始まる第一次五カ年計画によって重化学工業と農業集団化を推し進め、国際的には第三インター(コミンテルン)を「世界の労働者の祖国」であるソ連を擁護するための機関として利用していった。確かにかれはソ連を生産力や国民の知識水準の上昇へと導いたが、それ以上にこの過程における、ロシアを含めた各国共産党のいわゆる゛粛清″は凄まじいものがあった。フルシチョフ報告によれば4)、スターリン政権が誕生した1934年の第十七回党大会の代議員1956名のうち1108名が反革命の罪で告発されて逮捕され、この大会で中央委員に選出された139名のうち98名が数年後の1937ー38年にかけて銃殺されたという。このような冷徹な政治の論理であるスターリン主義はよくレーニン主義の゛鬼子″であると言われる。最初に党の純潔性を強調したのはレーニン(ЛеНИН、1870ー1924)であった。後進国での社会主義革命を遂行するために大衆のおくれを相殺するだけの進んだ精鋭、強力な前衛党が彼にとっては必要であり、彼の統治における神髄は「プロレタリアート独裁」という一党独裁の観念であった。この点ではスターリンは誰にもまして「レーニン主義」者だといえる。すなわち、レーニン主義の中にもトロツキーが批判するような代行主義、つまりインテリが未成熟な大衆の役割を代行し、続いて党がインテリを、幹部会が党を、中央委員会が幹部会を、そして最後には、個人が中央委員会を代行して個人独裁ができあがるシステムが胚胎していた ---- たとえレーニンの当時の状況では必要だったとしても -- -と言わざるをえない。そして、それが一気に噴出したのがスターリニズムだったといえよう。
スターリンは一国社会主義の建設と防衛において、国内的には1928年から始まる第一次五カ年計画によって重化学工業と農業集団化を推し進め、国際的には第三インター(コミンテルン)を「世界の労働者の祖国」であるソ連を擁護するための機関として利用していった。確かにかれはソ連を生産力や国民の知識水準の上昇へと導いたが、それ以上にこの過程における、ロシアを含めた各国共産党のいわゆる゛粛清″は凄まじいものがあった。フルシチョフ報告によれば4)、スターリン政権が誕生した1934年の第十七回党大会の代議員1956名のうち1108名が反革命の罪で告発されて逮捕され、この大会で中央委員に選出された139名のうち98名が数年後の1937ー38年にかけて銃殺されたという。このような冷徹な政治の論理であるスターリン主義はよくレーニン主義の゛鬼子″であると言われる。最初に党の純潔性を強調したのはレーニン(ЛеНИН、1870ー1924)であった。後進国での社会主義革命を遂行するために大衆のおくれを相殺するだけの進んだ精鋭、強力な前衛党が彼にとっては必要であり、彼の統治における神髄は「プロレタリアート独裁」という一党独裁の観念であった。この点ではスターリンは誰にもまして「レーニン主義」者だといえる。すなわち、レーニン主義の中にもトロツキーが批判するような代行主義、つまりインテリが未成熟な大衆の役割を代行し、続いて党がインテリを、幹部会が党を、中央委員会が幹部会を、そして最後には、個人が中央委員会を代行して個人独裁ができあがるシステムが胚胎していた ---- たとえレーニンの当時の状況では必要だったとしても -- -と言わざるをえない。そして、それが一気に噴出したのがスターリニズムだったといえよう。
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