社会主義はボルシェビキの暴力革命
投稿者: t2daisuki48 投稿日時: 2003/03/22 21:15 投稿番号: [57723 / 232612]
穏健派のメンシェビキは排除されるからですね。
1903年のロシア社会民主労働党第2回大会で組織論をめぐって党内が2分された際,レーニンの率いるボルシェビキと対立した少数派をいう。指導者は L.マルトフ,G.V.プレハーノフら。メンシェビキは後進国ロシアにおけるきたるべき革命をブルジョア革命と規定し,ブルジョアジーをその主導者と位置づけた。これはブルジョアジーとの協調を重視するもので,武装蜂起やプロレタリア独裁といった革命方式を否認するという意味で反ボルシェビキの立場である。 12年プラハ会議で両派は正式に絶縁した。メンシェビキは 17年の二月革命以後は臨時政府およびその後の A.F.ケレンスキー内閣を支持したが,十月革命では実権をボルシェビキに奪われ,ボルシェビキに合流したトロツキーら一部を除いて他国へ亡命した。
ボルシェビキ
連共産党の前身。十月革命を指導。ロシア語で「多数派」の意味。ロシアのマルクス主義者は 1898年ミンスクでロシア社会民主労働党を結成したが,1903年第2回党大会 (ブリュッセル,ロンドン) において,党員の資格をきびしくするように要求するレーニン派と,それに反対するマルトフ派の間に対立が起った。レーニンの主張は 28対 22 (保留1) で敗れたが,その後党内における自組織の自治を否定されたブント派ら7人の代議員が退場したため逆に多数派となり,党人事などで優位を占めるようになった。このとき以後レーニン派は自派を多数派と称し,マルトフらを少数派 (メンシェビキ ) と呼ぶようになった。メンシェビキが,当面する革命をブルジョア革命と規定してプロレタリアートの従属的役割を主張するのに対し,ボルシェビキはプロレタリアートが農民と提携してブルジョア革命を徹底することこそ重要であることを説くなど,両派の間には党の性格,革命戦術などの点で大きな差があった。第4回党大会 (1906,ストックホルム) ,第5回党大会 (07,ロンドン) を合同で開催したにもかかわらず,両派の対立はやまず,12年プラハで開かれた第6回全ロシア党協議会で,レーニンはメンシェビキと袂を分ち,独自の党を結成した。第1次世界大戦に際しては,敗北主義の立場をとり,自国の敗北を革命に転化させることを主張した。 17年の二月革命後,特に4月レーニンが帰国して,戦争中止,ソビエトによる全権力の奪取 (→四月テーゼ ) を呼びかけて以後,ボルシェビキの勢力は強まり,労働者,農民,兵士の間に次第に影響力を増大していった。同年 10月 23日 (旧暦 10日) ボルシェビキ党中央委員会はレーニンの提唱する即時武装蜂起を 10対2で決議,11月7日 (旧暦 10月 25日) 臨時政府を倒して政権を掌握した。翌年3月党名をロシア共産党と改め,52年第 19回党大会においてさらにソ連共産党と改称した。
http://www.britannica.co.jp/dspeople/119560_02.html
1903年のロシア社会民主労働党第2回大会で組織論をめぐって党内が2分された際,レーニンの率いるボルシェビキと対立した少数派をいう。指導者は L.マルトフ,G.V.プレハーノフら。メンシェビキは後進国ロシアにおけるきたるべき革命をブルジョア革命と規定し,ブルジョアジーをその主導者と位置づけた。これはブルジョアジーとの協調を重視するもので,武装蜂起やプロレタリア独裁といった革命方式を否認するという意味で反ボルシェビキの立場である。 12年プラハ会議で両派は正式に絶縁した。メンシェビキは 17年の二月革命以後は臨時政府およびその後の A.F.ケレンスキー内閣を支持したが,十月革命では実権をボルシェビキに奪われ,ボルシェビキに合流したトロツキーら一部を除いて他国へ亡命した。
ボルシェビキ
連共産党の前身。十月革命を指導。ロシア語で「多数派」の意味。ロシアのマルクス主義者は 1898年ミンスクでロシア社会民主労働党を結成したが,1903年第2回党大会 (ブリュッセル,ロンドン) において,党員の資格をきびしくするように要求するレーニン派と,それに反対するマルトフ派の間に対立が起った。レーニンの主張は 28対 22 (保留1) で敗れたが,その後党内における自組織の自治を否定されたブント派ら7人の代議員が退場したため逆に多数派となり,党人事などで優位を占めるようになった。このとき以後レーニン派は自派を多数派と称し,マルトフらを少数派 (メンシェビキ ) と呼ぶようになった。メンシェビキが,当面する革命をブルジョア革命と規定してプロレタリアートの従属的役割を主張するのに対し,ボルシェビキはプロレタリアートが農民と提携してブルジョア革命を徹底することこそ重要であることを説くなど,両派の間には党の性格,革命戦術などの点で大きな差があった。第4回党大会 (1906,ストックホルム) ,第5回党大会 (07,ロンドン) を合同で開催したにもかかわらず,両派の対立はやまず,12年プラハで開かれた第6回全ロシア党協議会で,レーニンはメンシェビキと袂を分ち,独自の党を結成した。第1次世界大戦に際しては,敗北主義の立場をとり,自国の敗北を革命に転化させることを主張した。 17年の二月革命後,特に4月レーニンが帰国して,戦争中止,ソビエトによる全権力の奪取 (→四月テーゼ ) を呼びかけて以後,ボルシェビキの勢力は強まり,労働者,農民,兵士の間に次第に影響力を増大していった。同年 10月 23日 (旧暦 10日) ボルシェビキ党中央委員会はレーニンの提唱する即時武装蜂起を 10対2で決議,11月7日 (旧暦 10月 25日) 臨時政府を倒して政権を掌握した。翌年3月党名をロシア共産党と改め,52年第 19回党大会においてさらにソ連共産党と改称した。
http://www.britannica.co.jp/dspeople/119560_02.html
これは メッセージ 57713 (georgia_sounds さん)への返信です.