本からの引用 (オリエンタリズム)
投稿者: b185472 投稿日時: 2002/12/24 21:23 投稿番号: [34725 / 232612]
「実を言えば、日本全体がまったくの作り事なのだ。そんな国はない、そんな国民もいはしない」
と、オスカー・ワイルドは1889年に書いている。
ワイルドがこのような観察をしたのは、日本が西洋に扉を開いてからすでに30年を経たときだった。
ヨーロッパには、フランス人の言う 「ジャポニスム」 があふれていた。
ドガ、マネ、ホイッスラー、ピサロ ・・・・・ 皆いっせいに日本の伝統の絵姿 (イメジャリー) に魅せられた。
1887年、ヴァン・ゴッホは 「タンギー爺さん」 の絵を富士山ときめ細かいキモノ姿のゲイシャの版画で飾った。
ゴーガンは扇子の形に紙を切り、グワッシュという不透明の水彩絵具を使った絵を制作した。
このような熱狂ぶりは広く社会にいきわたった。
影響はティーポットや花瓶から婦人服の織地に、花の生け方にもおよんだ。
ところで、この 「ジャポニスム」 にたいして、当時の日本はどのような状況にあったのだろう。
1880年代、日本は工場を建て、汽船を組みたて、軍隊を徴兵し、議会の準傭にあたっていた。
大学、事務所、デパート、銀行があった。
ワイルドはさらに詳しく述べていた。
「日本に住んでいる現実の人たちは、イギリスのごく普通の人たちと似ていなくはない。つまり、すこぶる凡庸で、奇妙なところとか、並はずれたところはなにもない」
ワイルドは時代に先んじていた。
彼が芸術論 『嘘の衰退』 のなかで触れた現象には、いまや名称がついている。
議論を伴いがちな用語で、「オリエンタリズム」 という。
オリエンタリズムとは 「悠久の東洋 (イースト)」 を意味した。
ワイルドは、「ジャパン」 の語にカッコをつけることだけは差し控えていた。
彼が書いていたのは、オリエンタリストの想像の産物である、単純で、穏やかで、香の薫りただよう 「ジャパン」 だった。
オリエンタリズムは、地中海東部から太平洋にわたる人びとと文化と社会についての、広く受け入れられた概念とイメージから成りたっていた。
東洋 (オリエント) の社会にはダイナミズムや動きがなかった。
東洋は、中東の寺院のモザイク画のように、時代を経ても識別可能な、たえず繰つ返される不変のパターンのままに固定されていた。
要するに、進歩しなかった。
啓蒙思潮を阻まれたまま、東洋はどんな理性的思考も、ロジックも科学も発揮しなかった。
東洋人 (オリエンタル) はただ存在するのみだった ・・・・・ 運命と、時間を超えた伝統に支配され、いつもかすかに悲哀をたたえた生き物だった。
東洋人は、月並みではなく 「異国風 (エキゾッチク)」 であり、理解できるどころか 「測り知れない (インスクルータブル)」 人たちであり、明るくなく薄暗かった。
東洋 (オリエント) は西洋 (ウェスト) の 「他者」 であって、両者の道は互いに交わることはなかった。
日本は、西洋からもっとも遠い東方にあったために探検者に知られていなかったが、1542年 (日本の古文献によれば天文12年、1543年)、ヨーロッパ人がはじめて到着するやいなや、オリエンタリストの極端な空想の対象となった。
その印象を最初に記録した西洋人は宣教師であったが、日本と日本人を、イタリアのイエズス会修道士いわく 「想像を超えた」 国と人びと、「ヨーロッパとは反対の世界」 とみなした。
ヨーロッパ人は背が高いが、日本人は背が低い。
教会は高いが、寺は低い。
ヨーロッパの女性は歯を白くするが、日本の女性は黒くする。
日本は地球の裏側にある宇宙だ ・・・・・ つねに人に屈服し、平伏している。
「 (日本人は) 信じられないほど忍耐強く、その不幸と辛苦を耐え忍んでいる。・・・・・惨めで貧しいにもかかわらず、安穏な生活に甘んじている」
と、修道士はまた別の折にも記している。
1549年に日本に来たフランシスコ・ザヴィエルは、どうして日本人は 「われわれのように」 左から右へ、横書きにしないのかと尋ねた。
彼の日本人ガイドは、逆にこう質問した。
「どうしてヨーロッパ人は、日本人のように、右から左へ縦書きにしないのですか」
その言外の意味に気がついたなら、ザヴィエルにも得るところがあったはずだ。
『日本人だけが知らない日本のカラクリ』
新潮社2000年発行、p.14より引用、パトリック・スミス著 (米国人ジャーナリストで元ニューヨーク・タイムズ記者)
と、オスカー・ワイルドは1889年に書いている。
ワイルドがこのような観察をしたのは、日本が西洋に扉を開いてからすでに30年を経たときだった。
ヨーロッパには、フランス人の言う 「ジャポニスム」 があふれていた。
ドガ、マネ、ホイッスラー、ピサロ ・・・・・ 皆いっせいに日本の伝統の絵姿 (イメジャリー) に魅せられた。
1887年、ヴァン・ゴッホは 「タンギー爺さん」 の絵を富士山ときめ細かいキモノ姿のゲイシャの版画で飾った。
ゴーガンは扇子の形に紙を切り、グワッシュという不透明の水彩絵具を使った絵を制作した。
このような熱狂ぶりは広く社会にいきわたった。
影響はティーポットや花瓶から婦人服の織地に、花の生け方にもおよんだ。
ところで、この 「ジャポニスム」 にたいして、当時の日本はどのような状況にあったのだろう。
1880年代、日本は工場を建て、汽船を組みたて、軍隊を徴兵し、議会の準傭にあたっていた。
大学、事務所、デパート、銀行があった。
ワイルドはさらに詳しく述べていた。
「日本に住んでいる現実の人たちは、イギリスのごく普通の人たちと似ていなくはない。つまり、すこぶる凡庸で、奇妙なところとか、並はずれたところはなにもない」
ワイルドは時代に先んじていた。
彼が芸術論 『嘘の衰退』 のなかで触れた現象には、いまや名称がついている。
議論を伴いがちな用語で、「オリエンタリズム」 という。
オリエンタリズムとは 「悠久の東洋 (イースト)」 を意味した。
ワイルドは、「ジャパン」 の語にカッコをつけることだけは差し控えていた。
彼が書いていたのは、オリエンタリストの想像の産物である、単純で、穏やかで、香の薫りただよう 「ジャパン」 だった。
オリエンタリズムは、地中海東部から太平洋にわたる人びとと文化と社会についての、広く受け入れられた概念とイメージから成りたっていた。
東洋 (オリエント) の社会にはダイナミズムや動きがなかった。
東洋は、中東の寺院のモザイク画のように、時代を経ても識別可能な、たえず繰つ返される不変のパターンのままに固定されていた。
要するに、進歩しなかった。
啓蒙思潮を阻まれたまま、東洋はどんな理性的思考も、ロジックも科学も発揮しなかった。
東洋人 (オリエンタル) はただ存在するのみだった ・・・・・ 運命と、時間を超えた伝統に支配され、いつもかすかに悲哀をたたえた生き物だった。
東洋人は、月並みではなく 「異国風 (エキゾッチク)」 であり、理解できるどころか 「測り知れない (インスクルータブル)」 人たちであり、明るくなく薄暗かった。
東洋 (オリエント) は西洋 (ウェスト) の 「他者」 であって、両者の道は互いに交わることはなかった。
日本は、西洋からもっとも遠い東方にあったために探検者に知られていなかったが、1542年 (日本の古文献によれば天文12年、1543年)、ヨーロッパ人がはじめて到着するやいなや、オリエンタリストの極端な空想の対象となった。
その印象を最初に記録した西洋人は宣教師であったが、日本と日本人を、イタリアのイエズス会修道士いわく 「想像を超えた」 国と人びと、「ヨーロッパとは反対の世界」 とみなした。
ヨーロッパ人は背が高いが、日本人は背が低い。
教会は高いが、寺は低い。
ヨーロッパの女性は歯を白くするが、日本の女性は黒くする。
日本は地球の裏側にある宇宙だ ・・・・・ つねに人に屈服し、平伏している。
「 (日本人は) 信じられないほど忍耐強く、その不幸と辛苦を耐え忍んでいる。・・・・・惨めで貧しいにもかかわらず、安穏な生活に甘んじている」
と、修道士はまた別の折にも記している。
1549年に日本に来たフランシスコ・ザヴィエルは、どうして日本人は 「われわれのように」 左から右へ、横書きにしないのかと尋ねた。
彼の日本人ガイドは、逆にこう質問した。
「どうしてヨーロッパ人は、日本人のように、右から左へ縦書きにしないのですか」
その言外の意味に気がついたなら、ザヴィエルにも得るところがあったはずだ。
『日本人だけが知らない日本のカラクリ』
新潮社2000年発行、p.14より引用、パトリック・スミス著 (米国人ジャーナリストで元ニューヨーク・タイムズ記者)
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