日本に民主主義はない
投稿者: exh1868 投稿日時: 2002/12/20 22:40 投稿番号: [33514 / 232612]
以下は本の引用です:
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日本人は以前あったすべてとの断絶を察知し、自分たちが世界初のポストモダンだという漠然とした流行の思潮に乗せられた。
「彼らは歴史を完了し、近代の遠い岸にたどりつき、いま ≪歴史の終わり≫ に立つ。
ミシンのような押し殺した規則正しい音をたてており、日本には葛藤とイデオロギーのどちらもない。
意味は蒸発してしまった。
現実は、その <ヴァーチャル> な表象によって置き換えられる」
このような考え方が、1980年代から90年代へ入るときに現れて、おおいに流行した。
しかし、これもまた想像上の 「ニッポン」 にすぎない。
日本について、これほど実情から遠い軽薄な解釈は、空前絶後であろう。
これぞ二歩前進して、ポストモダンの黒装束に身をつつんだオリエンタリズムで、クリサンスマム・クラブの 「ジャパン」、現代にあって消費用のもうひとつの 「プロジェクト」 でしかない。
日本人はルソー、ジョン・スチュアート・ミルなど、啓蒙思潮が世に送った長い系列の思想家を読んで、近代をはじめた。
その後、彼らはそれらの書物と思想を脇によけた。
彼らは近代経済を築いたが、近代的な社会を築かなかった。
戦後、彼らは臣民ではなく市民になったが、自分たちが参加する市民社会を作らなかった。
彼らは民主主義の機構をもっているが、民主主義をもっていない。
ポストモダニズムをいかに考えようとも、日本人はとにかく失格である。
先端技術と奇想天外な将来の夢をはぎとるならば、彼らの視座が、往々にしてポストモダンではなくプレモダンであることがわかるだろう。
日本人はいまどこにいるのか。
これからどこへ行こうとしているのか。
これらはもっともな質問だが、その答え方には注意が必要だ。
「彼らは遅ればせながら彼らなりの啓蒙の入口に立つ。彼らはようやく、われわれに近い者になろうとしている」
というのが、長いあいだ西欧における通念だった。
日本人は自分の心と社会の改造に取り組むうちに、そうなるかもしれない。
さもなければ、日本人はまったく別の方向へ行くかもしれない。
いまや西欧自体が、啓蒙思潮が完結したかどうか、それともその経過がそもそも間違っていたのか考えなおしはじめていることを考えると、これは興味ぶかい可能性である。
しかし、この種の言葉に置き換えると、問題の本質は完全に見失われる。
努力は、われわれに似ようとするためのものではない。
借りつづけるためのものではない。
努力は、自分たちがこれまでたどってきた道と、これからたどる道を理解するためのものである。
それには、彼ら自身の過去のすべてを、過去として、受け入れなければならない。
誤りだった過去の一部を、徐々に取りもどすことはできない。
また、奇想天外な未来を夢みつづけることもできない。
日本人はただ、気楽な風習をもつ無邪気な稲作民というだけではない。
中国から借り、厳しい身分制度を生き、西欧がら借り、その後、西欧に戦争を仕掛けた人びとでもあるのだ。
これらのことを心に留めるならば、次のように結論づけても逆説的にすぎることはないだろう。
日本人は、たんにより自分らしくなり、素顔のままの自分を受け入れてはじめて将来と向かいあうにちがいない、と。
@ @ @ @ @
『日本人だけが知らない日本のカラクリ』
新潮社2000年発行、p.223より引用、パトリック・スミス著 (米国人ジャーナリストで元ニューヨーク・タイムズ記者)
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日本人は以前あったすべてとの断絶を察知し、自分たちが世界初のポストモダンだという漠然とした流行の思潮に乗せられた。
「彼らは歴史を完了し、近代の遠い岸にたどりつき、いま ≪歴史の終わり≫ に立つ。
ミシンのような押し殺した規則正しい音をたてており、日本には葛藤とイデオロギーのどちらもない。
意味は蒸発してしまった。
現実は、その <ヴァーチャル> な表象によって置き換えられる」
このような考え方が、1980年代から90年代へ入るときに現れて、おおいに流行した。
しかし、これもまた想像上の 「ニッポン」 にすぎない。
日本について、これほど実情から遠い軽薄な解釈は、空前絶後であろう。
これぞ二歩前進して、ポストモダンの黒装束に身をつつんだオリエンタリズムで、クリサンスマム・クラブの 「ジャパン」、現代にあって消費用のもうひとつの 「プロジェクト」 でしかない。
日本人はルソー、ジョン・スチュアート・ミルなど、啓蒙思潮が世に送った長い系列の思想家を読んで、近代をはじめた。
その後、彼らはそれらの書物と思想を脇によけた。
彼らは近代経済を築いたが、近代的な社会を築かなかった。
戦後、彼らは臣民ではなく市民になったが、自分たちが参加する市民社会を作らなかった。
彼らは民主主義の機構をもっているが、民主主義をもっていない。
ポストモダニズムをいかに考えようとも、日本人はとにかく失格である。
先端技術と奇想天外な将来の夢をはぎとるならば、彼らの視座が、往々にしてポストモダンではなくプレモダンであることがわかるだろう。
日本人はいまどこにいるのか。
これからどこへ行こうとしているのか。
これらはもっともな質問だが、その答え方には注意が必要だ。
「彼らは遅ればせながら彼らなりの啓蒙の入口に立つ。彼らはようやく、われわれに近い者になろうとしている」
というのが、長いあいだ西欧における通念だった。
日本人は自分の心と社会の改造に取り組むうちに、そうなるかもしれない。
さもなければ、日本人はまったく別の方向へ行くかもしれない。
いまや西欧自体が、啓蒙思潮が完結したかどうか、それともその経過がそもそも間違っていたのか考えなおしはじめていることを考えると、これは興味ぶかい可能性である。
しかし、この種の言葉に置き換えると、問題の本質は完全に見失われる。
努力は、われわれに似ようとするためのものではない。
借りつづけるためのものではない。
努力は、自分たちがこれまでたどってきた道と、これからたどる道を理解するためのものである。
それには、彼ら自身の過去のすべてを、過去として、受け入れなければならない。
誤りだった過去の一部を、徐々に取りもどすことはできない。
また、奇想天外な未来を夢みつづけることもできない。
日本人はただ、気楽な風習をもつ無邪気な稲作民というだけではない。
中国から借り、厳しい身分制度を生き、西欧がら借り、その後、西欧に戦争を仕掛けた人びとでもあるのだ。
これらのことを心に留めるならば、次のように結論づけても逆説的にすぎることはないだろう。
日本人は、たんにより自分らしくなり、素顔のままの自分を受け入れてはじめて将来と向かいあうにちがいない、と。
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『日本人だけが知らない日本のカラクリ』
新潮社2000年発行、p.223より引用、パトリック・スミス著 (米国人ジャーナリストで元ニューヨーク・タイムズ記者)
これは メッセージ 33497 (exh1868 さん)への返信です.