Re: 今年のお盆も…
投稿者: komash0427 投稿日時: 2006/08/19 23:09 投稿番号: [229046 / 232612]
お久しぶりです。お盆休みは硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道大将に関する本を読んでいました。
・「散るぞ悲しき」(梯久美子)
・「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(解説・半藤一利)
硫黄島の戦いについてご存知の方も多いと思います。
恥ずかしながら自分は2、3年前に月刊誌で硫黄島の戦いを描いた戦史をほんの少し読んだだけで、その全容については露も知らず、この歳になって初めてその激戦を知り、また自分の無知さ加減をあらためて痛感。
今年の秋から冬にかけてクリント・イーストウッド監督による硫黄島の戦いを描いた映画が上映されます。
題名は「父親たちの星条旗」と、「硫黄島からの手紙」(主役は渡辺謙)の2部作連続!!
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/
次に紹介するのは「栗林忠道 硫黄島からの手紙」のあとがきです。
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硫黄島の戦闘の意味すること 半藤一利
1
硫黄島はその名のとおり、かつては硫黄を噴く火山島であったが、いまは活動を停止している。しかしなお全島のいたるところに噴煙がふきだし、ところどころに湧出口がひらき、硫黄ガスの匂いがたちこめている。ほとんど湧き水もない。戦時中はやむなく飲料水は雨の水を貯めるか、噴出する水蒸気を濾過して使うほかはなかった。その上に、本文の栗林忠道中将の手紙にも書かれているように、もうやたらに「蝿と蚊は目も口もあけられぬの程押し寄せて」来る、という極限にまで劣悪な自然環境にあったのである。
いまは重要基地として自衛隊が駐屯していて、一般の人が訪ねようとしても簡単に行くことはできない。もちろん島には民間人はだれひとり住んではいない。
このいわば忘れられたような不毛の小島で、太平洋戦争の末期に、日米両軍が真正面から戦力のかぎりをつくして激しく戦ったのである。戦死者は両軍を合わせて2万7千人に近いという。太平洋戦争における最大の激戦地となった。
なぜ、このような小さな、見るべき資源もなく、人が生きるのに最悪の島で、日米両軍が血みどろの殺し合いをせねばならなかったのか。
栗林忠道中将の総指揮のもと、大隊長としてこの島で戦い生き残った藤原環少佐の回想がある。それによると、昭和19年(1944)夏のある日、部隊長会合がひらかれ、種々の論議があったあと、栗林中将がこう言ったという。
「本島は皇土の一部である。もし本島が敵に占領されることがあったとしたら、皇土決戦は成り立たない。したがって、もし本島への米軍の上陸がはじまったならば、大本営としても陸海空の残存戦力を投入して支援し、本島への上陸は断じて食い止める、との約束をしている。すなわち、われわれは太平洋の防波堤となるのである。本島の防衛は即、本土の防衛であると考えてやらねばならない」
事実、東京まで約1,200キロのこの島は小笠原諸島の南西、硫黄列島の中央にあって、それはまさしく日本本土の一部なのである。いまは東京都に編入されている。しかし、この島には、元山飛行場、千鳥飛行場、北飛行場(未完成)と、長い滑走路を有する飛行場が三つもある。もし硫黄島が米軍に占領されるようなことがあったならば、行動半径約2,000キロの航続距離をもつ戦闘機P51D型のまたとない基地となる。となれば、マリアナ諸島に基地をもつ爆撃機B29との協同作戦によって、日本本土の制空権は完全に米軍に握られてしまうことになろう。
戦術的にみて、日本本土への空襲や上陸決戦を意図している米軍にとっては、この小さな島が最重要拠点として浮かびあがってきた。というのは同時に、日本にとっても、ということになる。大本営は当然ながらこの島のもつ緊急性を深く認識し、防衛戦力の充実には全力を尽くしたのである。
しかし、昭和20年(1945)の年が明けたころには、藤原少佐が記す栗林中将の言葉にあるように、いよいよ敵が上陸となったとき、「陸海空の戦力を投入して」という大本営の約束も反故にせざるを得なくなっていた。硫黄島への戦力投入はほとんど不可能なのである。なぜなら、米軍の主攻撃目標は、いまや東シナ海方面すなわち沖縄あるいは台湾へと向けられており、陸海軍とも持てる戦力のすべてをその方面に総結集して反撃することを余儀なくされたいたからである。くり返すが、日本軍の戦力は枯渇し、硫黄島へ敵が来攻したとき、これを見捨てるほかはなかったといっていいのである。
(→)
・「散るぞ悲しき」(梯久美子)
・「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(解説・半藤一利)
硫黄島の戦いについてご存知の方も多いと思います。
恥ずかしながら自分は2、3年前に月刊誌で硫黄島の戦いを描いた戦史をほんの少し読んだだけで、その全容については露も知らず、この歳になって初めてその激戦を知り、また自分の無知さ加減をあらためて痛感。
今年の秋から冬にかけてクリント・イーストウッド監督による硫黄島の戦いを描いた映画が上映されます。
題名は「父親たちの星条旗」と、「硫黄島からの手紙」(主役は渡辺謙)の2部作連続!!
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/
次に紹介するのは「栗林忠道 硫黄島からの手紙」のあとがきです。
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硫黄島の戦闘の意味すること 半藤一利
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硫黄島はその名のとおり、かつては硫黄を噴く火山島であったが、いまは活動を停止している。しかしなお全島のいたるところに噴煙がふきだし、ところどころに湧出口がひらき、硫黄ガスの匂いがたちこめている。ほとんど湧き水もない。戦時中はやむなく飲料水は雨の水を貯めるか、噴出する水蒸気を濾過して使うほかはなかった。その上に、本文の栗林忠道中将の手紙にも書かれているように、もうやたらに「蝿と蚊は目も口もあけられぬの程押し寄せて」来る、という極限にまで劣悪な自然環境にあったのである。
いまは重要基地として自衛隊が駐屯していて、一般の人が訪ねようとしても簡単に行くことはできない。もちろん島には民間人はだれひとり住んではいない。
このいわば忘れられたような不毛の小島で、太平洋戦争の末期に、日米両軍が真正面から戦力のかぎりをつくして激しく戦ったのである。戦死者は両軍を合わせて2万7千人に近いという。太平洋戦争における最大の激戦地となった。
なぜ、このような小さな、見るべき資源もなく、人が生きるのに最悪の島で、日米両軍が血みどろの殺し合いをせねばならなかったのか。
栗林忠道中将の総指揮のもと、大隊長としてこの島で戦い生き残った藤原環少佐の回想がある。それによると、昭和19年(1944)夏のある日、部隊長会合がひらかれ、種々の論議があったあと、栗林中将がこう言ったという。
「本島は皇土の一部である。もし本島が敵に占領されることがあったとしたら、皇土決戦は成り立たない。したがって、もし本島への米軍の上陸がはじまったならば、大本営としても陸海空の残存戦力を投入して支援し、本島への上陸は断じて食い止める、との約束をしている。すなわち、われわれは太平洋の防波堤となるのである。本島の防衛は即、本土の防衛であると考えてやらねばならない」
事実、東京まで約1,200キロのこの島は小笠原諸島の南西、硫黄列島の中央にあって、それはまさしく日本本土の一部なのである。いまは東京都に編入されている。しかし、この島には、元山飛行場、千鳥飛行場、北飛行場(未完成)と、長い滑走路を有する飛行場が三つもある。もし硫黄島が米軍に占領されるようなことがあったならば、行動半径約2,000キロの航続距離をもつ戦闘機P51D型のまたとない基地となる。となれば、マリアナ諸島に基地をもつ爆撃機B29との協同作戦によって、日本本土の制空権は完全に米軍に握られてしまうことになろう。
戦術的にみて、日本本土への空襲や上陸決戦を意図している米軍にとっては、この小さな島が最重要拠点として浮かびあがってきた。というのは同時に、日本にとっても、ということになる。大本営は当然ながらこの島のもつ緊急性を深く認識し、防衛戦力の充実には全力を尽くしたのである。
しかし、昭和20年(1945)の年が明けたころには、藤原少佐が記す栗林中将の言葉にあるように、いよいよ敵が上陸となったとき、「陸海空の戦力を投入して」という大本営の約束も反故にせざるを得なくなっていた。硫黄島への戦力投入はほとんど不可能なのである。なぜなら、米軍の主攻撃目標は、いまや東シナ海方面すなわち沖縄あるいは台湾へと向けられており、陸海軍とも持てる戦力のすべてをその方面に総結集して反撃することを余儀なくされたいたからである。くり返すが、日本軍の戦力は枯渇し、硫黄島へ敵が来攻したとき、これを見捨てるほかはなかったといっていいのである。
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これは メッセージ 228983 (kitaguniniakogarete さん)への返信です.