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「拉致認定」への遠すぎた道のり (2)

投稿者: aoinomama13 投稿日時: 2006/03/31 08:48 投稿番号: [227463 / 232612]
*秋田美輪さん「拉致認定」への遠すぎた道のり   aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/15543416.html

続き

  神戸松蔭女子学院大(国文科)の4年生だった秋田美輪さんは、その日、一番仲の良かった友人と学生食堂で昼食を取ったあと、正門前で午後1時頃別れた。友人は「ケーキ食べにいかへん?」と誘われたが、予定があったので断ったという。85年12月4日のこと。美輪さんの姿が目撃されたのは、それが最後となった。

  そして翌日早朝、同じ兵庫県でも神戸とは正反対、日本海側の竹野町・弁天浜という浜辺で、美輪さんのバッグと靴が発見されたのである。バッグの中には、名前を記した学生証が残されていた。

  「秋田美輪さんというのは、おたくのお嬢さんですか?」警察からの突然の連絡に、母・嶺子さんは、自宅(兵庫県川西市=当時)から、列車を乗り継いで現地に急いだ。損害保険会社の管理職だった父・正一郎さんは単身赴任先の徳島市から駆けつけた。

  2人が到着したときには、もうヘリコプターや巡視艇、ダイバーや消防団が出動し、本格的な捜索が進んでいた。警察によると、バッグと靴は波打ち際1メートルのところに、きちんとそろえて置かれ、そこから海に向かって足跡もついていたという。

  「女子大生、入水自殺か?」地元新聞は警察の判断に基づいて、小さくこう報じた。当時の記事の、古く黄ばんだ切り抜きを手に、正一郎さんは無念さを新たにする。

  「私たちは、あの子が自殺するなんて信じられませんでした。失踪の少し前、『梅田(大阪)で若い男の人に、モデルにならへんかって声を掛けられたの』などと、父親である私にも気さくに話してくれるような娘でしたから。捜索に熱心に協力してくれた漁師さんの話でも、『ここは入水自殺は多いけど、入り江だから遺体はいままですべて発見されていますよ。見つからなかったケースは1例もない。これだけ捜して見つからないのは、違うのでは……』ということでした」

  2日間の捜索が打ち切られたとき、正一郎さんは地元警察に懸命に訴えた。「拉致という線で、捜索をお願いできないのですか?」何年か前にすぐ近くで北朝鮮の工作船侵入事件があり、2人が強制送還されたということも地元で耳にしていた。

  だが、警察の答えは、「お父さん、バッグが見つかっただけで物証もないし、目撃者もいませんからねえ。事件性があるとは考えられません。お気の毒ですが」と言うばかり。バッグも中身ごと「捜査は終わったから」と、その場で返された。

  その中には赤い定期入れと財布、卒業の行事予定がメモしてある小さなノート、リップスティック、カバーの掛けられた文庫本(蒲原有明詩集)、「おぜんざい」とプリントされた小さな食券……。

  いまも自宅に大切に保管してあるその黒い小さなバッグを手に、母の嶺子さんがポツリともらした。「ときどき、こうしてバッグを取り出したとき、フタを開けると、私にだけ分かる、あの子の匂いが、かすかに立ちのぼって、辛くなるんです」

  美輪さんは父親の転勤先の岐阜で生まれた。小学校に上がる頃、一家は兵庫へ。「幼い頃は体は小さいのに駆けっこが得意な活発な子でした。中学では新聞部に入って学校近くの桂米朝さんのお宅に嬉しそうにお話を聞きにいったり、川西明峰高校(ヤクルト古田敦也選手の出身校としても知られる)ではブラスバンドに熱中していました。でも、年頃になってからは急におしとやかに、おとなしい性格に変化しましてね。大学のお友達に『ケーキ食べにいかない?』なんて自分から積極的に誘うのも珍しいことだったので、その友達も記憶に残ったようなんです。大学に進むときは考古学を勉強したいと。でも、主人が遠くに手離したくなくて、結局、地元の女子大に入ったんです」(嶺子さん)

続く
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