小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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李容九の人と信念2

投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2005/10/27 08:20 投稿番号: [221865 / 232612]
東学党の乱は、竹槍蓆旗を擁した土民軍的な蜂起であったが、党軍の行くところ、多年塗炭の苦しみに坤吟していた民衆はこぞって呼応し、党籍は高誦され、たちまちにして大軍団となった。

この有様に李太王や閔一族は色を失い、清国軍隊を導入してこれを抑えようとした。清国政府も、これを機に韓半島を手中に収め、名実共に附属国たらしめんとした。ここに清国は、先に日本と結んでいた天津条約を無視し、一方的に兵を入れた。日清戦争の端緒である。
 
自国の改革をめざしていた東学党は清国軍と戦い、また清国との均衡上出兵した日本軍とも戦った。
 
東学党援助のため渡韓した内田ら民間志士は、「爆裂弾強盗犯」の罪名のもとに祖国の官憲から追われる身となった。一方、李容九も公州における日本軍との決戦に敗れ、右足に貫通銃創をうけて江原道に逃がれ、地下に潜んで改革運動を続けた。全捧準は捕えられ、死刑に処せられた。
 
韓国では、中国を古来より宗主国の如く崇敬し、日本を東夷として軽んずる思想的傾向が強かった。しかし、今次の日清戦争にょって日本が清国を撃破した事実と、同時に知らされた自国政府の無力さ、および世界史の動きに盲目であった間に、アジアに対する列強の侵略などによって、李容九の心は恩讐を越えて、次第に日本へ引き寄せられていった。一方、李朝は次にはロシアの勢力を国内に導入し、これを以て日本に対抗しようとしていた。無論、日清戦争前同様、国内改革には全く手をつけずじまいにである。そのような李朝にとって、地下に潜んだとはいえ、根強い力を持つ東学党の存在は脅威であった。一八九八年(明治三十一年)、当局は東学党の大検挙を敢行した。李容九は捕えられ、獄に在ること百余日に及んだ。この間、当局は法兄たる孫秉煕の所在を吐かしめんと日夜李容九を拷問にかけるのであった。李容九は膝を挫かれ半ば刑死するに至ったが、唯「知らず」の一言を以て終始し、遂に実を吐かなかった。李容九の、信念筆固にして済世救民の熱情は挫けなかった。
 
出獄後、李容九は咸鏡道を中心に活動し、また、孫秉煕が東学党を改め天道教を起こして新たな活動に入ると、それに対しても、遍く浄財を募り、十万円という多額の資金を贈ってその活動を助けた。
 
ところが、孫秉煕は国内改革の面では李容九と全く心を一にしていたが、日露の風雲がいよいよ急を告げるに至り、教徒を使疾して日本に反抗せしめ、自らを巧みに日露両勢力の間に処して勢力を伸ばそうと意図するに至った。そこで李容九は、地政的にも人種的にも日本と提携することの必然性を信じ、断然孫秉煕と袂を分かって新たに「進歩会」を組織するに至った。
 
日露開戦を迎えると、李朝の東学党大検挙後日本に亡命していた宋秉蔲が京城に帰り、開明の士であった尹始炳と結び、日韓同盟の実を挙げんと計画し、「維新会」を組織した。
 
宋秉蔲、尹始炳らは、日露戦争が単に日本とロシアの二国間のみの戦いではなく。ロシアのアジア侵略を防ぐアジア人の戦いであることを喝破していたのである。
 
また、宋秉蔲は本来東学の徒であり、李容九と心情的にも通じるものがあった。宋秉蔲は李容九に接近した。李容九はこれを受け、両者は更に運動を広範化するため、進歩会と維新会を合体せ
しめることに意見の一致を見た。この時組織されたのが「一進会」であり、会員数は五十万とも百万とも言われた。会長には李容九が、副会長には尹始炳が、宋秉蔲は評議員長へとそれぞれ就任した。時は明治三十七年十二月、旅順攻防戦たけなわの頃であった。
 
この時、すでに李容九の胸中には、アジア連邦結成の構想があった。
 
日清戦争後、李容九は見聞を広めることを目的として、一度日本視察の途についたことがある。この時、李容九の脳裡深く入り込み、且つ離れ得なくなったのが、樽井藤吉の「大東合邦論」であっ
た。
 
樽井は、その論の中に言う。
「東洋諸国は力を一つにし、西力に対抗すべきアジア連邦を結成すべし」
 
まさしく、大アジア主義の構想である。

(参考資料   大日本生産党   李容九先生没後九十周年記念出版原稿より)
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