李容九の人と信念
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2005/10/27 08:19 投稿番号: [221864 / 232612]
李容九は一八六八年(明治元年)韓国における両班階級中、最高位の門閥に生まれた。生まれながらにして、その生涯は優雅に且つ安泰であることが保障されていたのである。しかし、彼はそれを望まなかった。十八歳の時、自ら下民の間に伍して東学党第二世の教主・雀時享に師事し、その教旨を受けるところとなったのである。
時の韓国王は、李太王であった。その治下に外戚は跋扈して権臣は党を結び、李朝の政道はいよいよ乱れてゆくのであった。これが所謂閔族一派専横の時代であり、宮廷にあっては閔妃が李太
王の寵を恃み、政治に干渉して綱紀は全く紊れ、閔氏一族は政府の要位を占めて正義の士を斥け、売官、収賄、誅求の悪弊は底を知らず、宮中はまさしく百鬼の巣窟たるの観を呈していた。しか
も、その悪弊は全土に波及し、宮中の王族権官を始め貧官汚吏は驕奢に耽り、長夜の宴を張って歓楽をほしいままにしている有様となっていた。ために民力は疲弊し、一般の人々は塗炭の苦しみ
に喘ぎ、庶民の怨嵯の念は国中に募るのであった。
李容九が、両班最高位の門閥に甘んじるのをよしとしなかったのは、この理由による。そして、この惨状に奮然義旗を挙げていたのが、東学党である。
東学党の党詩は、かかる世を次の如く詠んだ。
金樽美酒千人血(金樽の美酒は千人の血)
玉盤佳肴万姓膏(玉盤の佳肴は万姓の膏)
燭涙落時民涙落(燭涙落つる時民涙落つ)
歌声高処怨声高(歌声高き処
怨声高し)
一八九四年(明治二十七年)、東学党は遂に起った。全羅道の郷士、全捧準を指揮官に、李容九は参謀格であった。世に言う「東学党の乱」
である。
日本人志士の中にも、隣国民衆の窮状を放置し得ず、渡韓してこの戦線に立った一団があった。早くから東学党と盟約を結んでいた内田良平の天佑侠一統である。この時、内田と李容九は個人
的な面識もなかったが、後年、二人が異体同心の血盟を結び、日韓合邦運動に挺身するに至った機縁は、この乱にあった。
これは メッセージ 221863 (scorpionti さん)への返信です.
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